ストレス うつ病 人間関係の悩み ⑥

        ストレス・うつ病 人間関係の悩み ー ⑥
   アダルト・チルドレンAC <依存・支配>と自立について
                        ー 前書きを読んでくださいー

 すべての人に読んで欲しい、アダルト・チルドレン(A・C)について
 
 アダルトチルドレンの一般論は、たくさんの本が出版されていて、それを読んでいただければ十分です。ここでは、それらの本にあまり書かれていないことを書きます。
 アダルトチルドレンは<大人ないなれない、子供>では無くて、<大人のような子供、もしくはそのように育った大人>のことを言います。
 例えば暴力的なアルコール中毒の父親を持った子供は、安心できる家庭がありません。常に、生活や父親や、母親のことを心配して過ごします。両親が日ごろからいがみ合っていても、親が過大な期待を子供にかけても、過干渉や、子供を相談相手として育てても、子供が子供として安心して生活はできません。

 その結果、心にいつも不安を抱えています。大人になっても、安心できる人間関係を、作ったり・感じることが難しいんです。
 困った事にそうした親は、自分が親から受け継いできた関係であって、自分の問題だと気がつかないことです。愛情ある行為・愛情ある関係だと思っていることなんです。また子供も、「母親は自分のためにしてくれているんだ」と、無理に納得して自分の感情を、押し殺してしまうことです。

 アダルトチルドレンは病気ではありません。悪いわけではないんです。その関係を自覚すれば、アダルトチルドレンではありません。例えば、母親になって「<言うことを聞かない子供に、イライラして手を上げる>のは、母親が私にしていたことなんだ」と気がつけば、気持ちも治まります。

 重要なことは、肉体的な親の子に対する暴力は理解されます。しかし、精神的な抑圧や支配は理解されにくいことです。「子供に勉強を強制する」と言った行為は、親の愛情と区別がつきません。誰でも多少はすることです。したがって、回りから理解されることはあまりません。逆に、「あなたの親は、あなたのことを思ってしたのよ、親に感謝しなさい」と、相談相手に傷つけけられてしまいます。
 だから、皆さんにアダルトチルドレンのことを知ってほしいのです。そして親の愛情が、絶対のものでない事を。
 そして、親子の問題で困っている人は、分かっている人だけに話してください。専門家でも、この問題を理解する人は、本当に少数です。しかし、あきらめないで理解者を探してください。<理解される事>により、楽になるのです。
 ただし、親に理解されようと思っても、難しいと思います。今までうまくいかなったのですから。また親に理解されようと強く願ったり、理解してくれるはずだ、と思うのは問題かもしれません(16・17歳までなら当然かもしれません、)。それは、あなたが持つ苦しみの、もう一つの原因なのです。あなたの、親に対する、依存と支配の関係なのです。

 実は擬似親子関係しか知らない、ほとんどの日本人がアダルトチルドレンなのです。それに気づいているか、いないかなのです。
坂口安吾が言っています「親が無くても子が育つ、では無く、親がいても子が育つ」なのですと。

 何度も書きましたが、<擬似親子関係や自立しないこと>が悪い事ではありません。擬似親子関係しか知らないと、外の世界が見えてこなく、生きづらいからです。
そして、完全な自立もありえません。適度な関係<つかず離れず、和して同せず>なのです。
 さて、ようやく終わりです。どうしましょうか。とりあえず「~~してもらった。~~してあげた。~~に裏切られた。」と言う言葉は使うのを止めてみませんか。(依存と支配の象徴する言葉です)


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  最後に

 2003年ごろカンボジアに行った時、ポルポト政権による虐殺の現場を見ました。それまで疑問に思っていた事を、この目で見て確認したかったのです。
 この虐殺事件に対して、現在国際司法裁判が開かれています。少しずつ真相が明らかになりつつあります。最高指導者といわれる、ポルポトはすでに死亡しでおり、関係者が口を閉ざし、外国からの武器援助の問題など、なかなか裁判は進んでいません。
 カンボジアのシアヌーク王政からの歴史は複雑です。敵だった人物と手を組んだり、現政権に、虐殺に関わったと思われる旧ポルポト派の重要人物がいたりするのです。なぜそんなことができるのか、頭が混乱します。

 カンボジアの民族はほとんどが農業で生計を立てています。歴史的にも民族的にも争いを好まず、穏やかで、お人よしとも聞きました。アジアのどこにでもあるのどかな風景があちこちに見られます。
 それなのになぜ、プノンペンから市民を追い出し、貨幣を禁止し、国民の約4分の1の人口にあたる150~200万人近い人を殺したのか。それも自分たちの仲間を、わずか数年で虐殺したのです。これは世界に歴史の中でも、極めてまれな、特別な事件・犯罪だと思います。外の世界の人間・他の部族や国民を殺した歴史は数限りなくありました。しかし、この虐殺では、子が親を、親戚が親戚を、殺したのです。
スターリンの粛清とも少し違います。それは自分の権力を維持するため、スターリンに敵対するだろう勢力(外側)に、向けられていたものでした。
 しかしカンボジアでは、内部へ、内部へ、あたかも自己崩壊(自殺)するかのように、止まることが無くエスカレートしていきました。ツール・スレン収容所での虐殺記録が、物語っています。
 何故、みさかえ無く、エスカレートして行ったのか、それは指導者がいなかったからだと思います。権力の主(かつてのソビエトならスターリン)がいなかったから(個人でなくても)、権力の主体が無かったからこの悲劇が起こったのだと思います。
虐殺を止める人がいなかっただけではなく、止めさせる相手がいなかったのです。

 私は虐殺のエスカレートと言う件に関し、ポルポトと言う人物はさして重要な要素ではなかったと思っています。もちろん、大量虐殺の直接の原因・責任は彼ら指導部にあること間違いありません。それ以外に中国の武器援助、ベトナムの軍事介入、などなど・・。
 しかし根本の問題、それはアジア型の、どこにでもある風景、農村の部落共同体の中での関係性.。集団の内側に向かってのみ存在していた自己が、集団が解体されることによって、見失ってしまった事・崩壊した事にあると思いました。
集団に依存する擬似親子関係が(個人として=意見を言わない・言わせない、動かない・認めない)生んだ悲劇だと確信しました。

                                             終わり

心の問題はここで一区切り、次は体の事、特に現代人の体の異常について書きます。

theme : うつ病(鬱病)、メンタルヘルス
genre : 心と身体

                 愛知県北設楽郡東栄町です。

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        ストレス・うつ病 人間関係の悩み ー ⑤
   アダルト・チルドレンAC <依存・支配>と自立について
                        ー 前書きを読んでくださいー


<世間><人並み>も、<常識>も、結局自分の頭の中の世界。そんな世界があればある程、窮屈になっていく。自分の自由がなくなるだけでなく、他の人の自由まで、奪っていくのです。

日本社会は変っても人は変らない

 数十年前も今の日本人も、精神構造はそんなに変ってはいません。しかし、社会が地球規模に拡大し、日本の社会構造が大きく変化しました。農耕・村社会ではなくなってきました。その変化が、まず若い世代に子供たちに、現れます。そのひずみが、親との関係、そして社会全体に広がっていきます。
 個人の病気(うつ病)を見ると、ネット依存症やリストラで会社を首になったり、業績の悪化でストレスになったりしています。しかし、大きく見ると<家族の関係・個人と社会との関係>が、変ってきているからです。
 今起こっている精神的な結びつきの変化は、<第二の黒船>、避けられない問題なのです。民主主義はここから始まるのです。

 家族が小さくなって、一人で生きていかなくてはならない時代(本来そういうものですが)に、ようやくというか、必然的になってきました。何事も、個人として向かっていかなくてはならなくなったのです。自由を手に入れたということは、集団の縛りがなくなったということであり、ほっておかれることでもあるのです。、
<自由を手に入れた>ということは、それだけ自分で決断しなくてはいけなくなると言う事なのであり。子供から大人になる事は、めんどうになるのではなく、自由になることだったのです。
 それを楽しむには、自分の依存に目覚めること、依存を自覚すれば、それだけ自由になることなのです。 
 しかしさりとて、人間は何かに依存しなければ生きられません。仕事や子育て、携帯やインターネット。買い物・パチンコなんでもありです。私は猫に依存していますが・・。
ほどほどに距離をとって、距離と取れる生活をして、依存を自覚すれば、依存も楽しいのです。人は一人では、つまらないからです。

うつ病など不安を抱えている人へ

 うつ病などの強い不安を抱えている人へ、気持ちが軽くなる具体的なアドバイスを書こうと思っていました。しかし、書ききれないと思いました。なぜかと言いますと。
うつ病と診断されていても、さまざまな状態があります、また、うつ病と言われ無くても、うつの薬を飲んでる人もいます。原因もさまざま、一般論では語れないからです。

 人間の関係性に悩んで強いうつ状態になる場合と、ホルモン異常で不安になることもあるからです。ノルアドレナリンやセロトニンが不足でもうつ状態になります。思春期に盛んになる性ホルモンも強い不安を引き起こします。更年期にもホルモンバランスが乱れ精神的に不安になります(男性にも更年期はあります)。
4月終わりから5月にかけて、僕は「竹の子が伸び、葉をつける季節」は、誰でも気分的に不安定だと言っています。自殺の月別平均もこの時期が1番多いのです。


 体からくるものと、社会的要因によって引き起こされるものと、その両方が絡んでいるものなど、ケース・バイ・ケースなのです。更年期など、体からくるものは、時期が過ぎれば、良くなることを知るだけで楽になります。病院での治療が必要なこともあります。
 このような体の異常による精神的な不安定も、自分ではなかなか気づきません。人間はすべからく<周りが悪いから不安になる>と、原因を外に求めます。実際に、伴侶や社会の問題もあるからです。
 人間関係の問題は、誰でも持っている問題なのです。大なり小なり、人と関わりを持っている限り。僕もそうです、だから自分の考えを整理するつもりで書いているところもあります。
 変だと思ったら、自分で自分の気持ちの原因をチェックし、第3者や、専門家に相談すべきです。(私はしません、自分は正常だと思っていますから!笑い!=そのくらい頑固です。今はまだ困っていませんので・・)  

 このシリーズでは、人間関係、とりわけ、幼年期から思春期にかけての成長期の、母子関係がその後の、人生に与える影響に注目しました。人間関係によるストレスの原因も多様です。しかし、その強い不安の根底にある物は、両親の両親そのまた両親から受け継いできた、人間関係=擬似母子関係が、今日の社会に適応していないからと考えているからです。(強い不安=生きていけないと感じたり、動けない)
 さらに、犯罪や事件の報道から推測されるケースとして、生まれた時からの親子関係が成立してないんでは?と考えることもあります。

 こうした親子関係や、自分自身の問題性は、自分自身では気がつか無いんです。
母親も一人しかいないし、育った家庭も普通は一つしかなかったからです。他人の親子関係や、人の関係性に触れる事、機会も少なくなりました。
今は、自分で動かなければ、ほおって置かれる時代になったのです。孤立してしまうのです。不安は生きるエネルギーにもなり、うつは芸術を作るエネルギーになっているかもしれません。

 しかし、今のままでは辛いと感じたら、どうか、あきらめないで、自分の服(殻)を作って、外に出てきてください。 
自分の世界や部屋に閉じこもっているのは、殻を作っているのではなく、殻が無いから、だと思います。殻が無いと外に出るとすぐ傷ついてしまいます。そうした経験から、閉じこもってしまうのです。でも殻が重過ぎても倒れてしまいます。適当な殻を作る方法は、他者を知る事。これまで書いてきた事、だと思います。


ーーー以下⑥に続くーーー

 

ストレス うつ病 人間関係の悩み ④

        ストレス・うつ病 人間関係の悩み ー ④
   アダルト・チルドレンAC <依存・支配>と自立について
                        ー 前書きを読んでくださいー


 日本以外のアジアでは、家族に強い自己の存在を規定しているようです。アラブでは部族。アメリカはヨーロッパとアジアの中間に位置し。日本はアメリカ型のような中間の位置に近づいていると思います。
 つまり、日本社会の人間関係が、アジア型からヨーロッパ型に移行しつつあるのです。そこに世代のずれ、また個々の間での関係性をどう作ろうか、混乱が生じているのです。どうしたら理解され、どうしたら理解できるのか。
 
 熱血教師が生徒の体をゆすり「先生は真剣なんだ!」と、ツバを飛ばして話しても、時として生徒は理解できません。熱血教師は、まさに擬似親子関係を求め、生徒はそんな関係を求めてなかったりするからです。熱血教師は擬似親子関係を求める生徒だけ、「分かり合える・かわいい」と感じてもふしぎではありません。これは教師の生徒に対する<甘え>=依存でもあります。

 恋人募集中の彼女も、熟年カップルも、相手の求めている<関係の質>を知り、
自分の求めている<関係の質>を自覚すれば、さらに良い関係が作れるのではないでしょうか。


日本語独特の<世間>が意味するもの

 子供が電車の中でむずがると「ほら、あそこの知らないおじさんが怒るよ!」とか、別の場面では「親が泣いとるぞ」と、自分はしからないで、人が怒ると、しかるんですね。子供が何か欲しがるときには「みんなが持っている・僕だけ持ってない,買って!」となるわけです。
 その、よその人の代表が世間です。子供が言うことを聞かないと、「そんなことは世間が許さないぞ!」と言います。今では死後に近い言葉かもしれませんが、その概念は未だ健在です。
 この言葉は面白い言葉です。世間と言う、会社も事務所もURLもどこにも無い存在が、意見を言うのです。あたかも人が存在するかのように話します。
しかし、近頃あまり使われなくなりました。<隣家となんでも一緒の世界>が壊れてしまったからなんですね。つまり、世間とは、自分が同じ仲間だと思っている代名詞のことなのです。結局は、自覚できていない、間接的な自分です。
しかし、同じだと思える仲間がばらばらになれば、その言葉は使えません。
 そうなるとどうしても、「僕はこう思う、俺はこうする」といった、主語を使って話さざるを得なくなります。
 世間とか、みんながこうしてるという言葉は、自立してない部分を補う形で、自分の内側に存在している物の代名詞なのです。世間とは、実は自分が思っていることなんです。自分の考えた世界に、自信が無い、責任が取れない場合そうやって使ってごまかしていたんです。
と言うかそれが生きやすかったんです(正しいので無く)。
 
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人間関係うまくやるにはどうしたらいいのか

 結局、自立しかないんです。自分の体や頭さえ自由にならないのに、他人の事など、どうして自分の思うどうり行くのか。親や子供も自分とは違うのです。
そこが分かってくれば、少しはスッキリしてきます。それでも、自分だけの問題・欲の問題がありますね、欲は生きていく糧でもありますから。<楽しくて、悲しく・美しい>また次の機会に書きます。

 なぜ、自立が必要なだけなのに、こんなにくどくど書いたかと言うと、<自分は自立している>と、多くの人が思っているからです。その悩みの中に、この問題が深く関わっているからなのです。
 確かに、経済的には自立しているかのように見えます。しかし、社会の上部構造に行けば行くほど、自立してない人が多いと思うからです。
 それは、自立する機会<思春期>に、親からの援助に頼り、大学を卒業し、さらに大学院まで行く人達は、親と真剣に対峙し、格闘し、自分は自分、親とは違うという感覚、他者の存在の気づきが困難だからです。

 私は癌でしたから、たびたび病院にいきました。ドクターが今度はCTを取りましょう、とかエコー取りましょうと言うんです。私に「必要と思います、取りますか?」とは、絶対に聞きません。誰も聞かないから、そう聞きませんし、ドクターも聞かれても、自分に任せて欲しいのです。<依存と支配>の支配のほうです。患者は「お任せします・よろしくお願いします」、と言えばうまくいくことになっています。ここでも擬似親子関係なのです。
 そこで私は聞きます、「いくらかかりますか?」と言うと、ドクターも看護婦も知りません。慌てます、大体このくらいかな~~?、事務所に聞いてきましょうか?と答えます。 誰も聞かないから、知らないんですね。つまり、自分が払うべき金額を前もって知らないんです。誰も治療やその手段を、選択した人がいないんですね。

 しばらく経ってこう聞きました「カルテの公開をお願いします」。回りの全員が驚きます。この病院は地域の中核病院で公開を公示していたにもかかわらず、めったに無い事なのです。しかし、たとえ本人でも自由に見ることはできませんでした。
 カルテ公開委員会を招集し、複雑の条件の下、数週間後、私に見せるかどうか決定するとのことでした。
検査の結果、どのような治療がなされたか、私は知ることが自由にできないのです。
 カルテの公開は、本人なら<いつでも・何でも・何回でも>OK、でなくてはなりません。責任がどこにあるのか、明確にしない医療体制は現代のものとは思えません。。

 私が医者の立場なら、見せないと、何か後ろめたいことがあるのかと、疑われてる様でいやです。一方患者側は、何も言わないことが、信頼関係を作ると思っているのです。
こういう感覚は、擬似親子関係の中だけにいて、外側・他者がいない関係なのです。だから、外から見られることに自信が無いのです。
 何か聞くことさえ、病院・人を疑っているようでいやだ、と言う感覚・「おまかせします」と、いう依存体質が、患者の当然の権利を奪っているのです。
 そして当然、病院側のスタッフの中にも、擬似親子関係からはみだす人もいます。居場所を失って熱意を失ったり、辞めたり、古い関係性のスタッフとぶつかります。
こういう関係は患者にとって不利だけでなく、病院側・スタッフにとってもマイナスです。良い職場関係を作れないでいるのです。

ーーー以下⑤に続くーー

 

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genre : 心と身体

うつ病 ストレス 人間関係の悩み

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        ストレス・うつ病 人間関係の悩み ー ③
   アダルト・チルドレンAC <依存・支配>と自立について
                        ー 前書きを読んでくださいー

不安・葛藤について

 多くの日本人は、自己の存在を(アイデンティティー)を集団の中に求め。その集団から抜け出る時、または追い出される時に、強い疎外感や葛藤や混乱がおき。ヨーロッパ人は個と個の関係で自己の存在を規定し、受容されることを求めます(友人関係がとても大切です)。したがって、個々間での関係を否定され孤立すると、疎外感や葛藤が生じる気がします。
しかし、元々一人のでいることへの孤独感は、家族への依存の強いアジア型と違って強くありません。

 よく、アジアのリゾートで1日中、一人で(又は夫婦で)本を読んでいるヨーロッパ人がいます。たとえ時間があっても、日本人にはなかなかできません。ただ、話しかけ「ると待っていたように、返事が来たりします、「アー、やっぱり、一人も寂しいのかな~~」、と思うこともあります。「一人ですか?」と聞くと。「もちろん、一人になりに来たの」、と言うわけです。
又、たまにあるホーム・パーティーは、彼らの孤独の限界点なのかもしれません。(それ以外、人付き合いは、ほとんど無いのですから)

 欧米の家族間で、お誕生日に電話したりカードを送ったり、関係が日本の家庭より親密に見えます。しかし、お互いの意思で結びつきを確認しているような感じです。つまりそれをしないと、親子の関係でも切れてしまうからです。夫婦の関係も、お互いに意思を確認します。確認できなければ別れることになります。(いつもキスをする理由なのかな?でも、私は頻繁にキスするカップルはあまり知りません)
 日本人の人間関係は(地縁・血縁のように)、ほっておいても切れない、ほっておいてくれない関係だと思っているのです。
 (定年後、夫婦の熟年離婚は、夫の方は<夫婦は親子関係のように>切っても切れない関係だと信じているんですね。突然言われて、びっくりするんです。夫婦と言うのは、実は<意思で結ばれている関係>であって、妻はお母さんでは無かったんです)

 この辺が分かると、離婚が多い、結婚しない人が多い理由が理解できます。経済的な問題だけでは無いのです。経済的な問題が解決しても、日本人はなかなか離婚しません。憎しみあって離れず、争いになります。欧米では、別れても友人として付き合うことは珍しくはありません。

 繰り返しになりますが、欧米では個人を囲む<人の輪>は、家族と友人だけ、それ以外は無いからです。(世間・会社・地域・親戚付き合い・婦人会・青年団・PTA・消防団に曖昧に入れられることはありません)。
 個人の意思関わる集団が重要な意味を持ちます。ボランティアや教会(宗教)・政治活動・市民活動(環境問題)などです。これらはあくまで、あくまで個人の意思での結びつきですから、原則的に誰でも自由に出入りできる関係なのです。自分がかかわりを持たなければ、一人になってしまいます。

 *信仰がある人もいるかもしれません。この辺はバラバラで意見が言えません。

日本語に秘められた意味

 日本語はたびたび、受け身で話します。「泥棒に入られた」「妻に逃げられた」、これは誰でも普通に使います。しかし英語では決して言いません。「泥棒が入った・妻が逃げた」と言います。
受身形では、文字どうり、主体性が感じられません。それと同時に、もう一つの問題が隠されています。文を疑問文にして見ましょう。
「私は、なぜ、泥棒に入られた?・私は、なぜ、妻に逃げられた?」。日本文は自分中心で、外の世界、泥棒という他者の都合が見えてきません。妻は何を考えたのか、思考に他者が入りません。これを英文で言うと「なぜ泥棒が入った?なぜ、妻は逃げた?」と、直接、他者の考えに触れます。
 夫婦の間でも「お父さん・お母さん」と呼び合います。これは外の人に向かっても使いますから、外の人には、本当の父や母なのか区別がつきません。他者からの視点が無いんです。
 これを大きな社会で考えますと。敗戦を終戦といい、「徴兵に取られた」と言い、主体があいまいで、他者がいなくて、言葉が内側に向かっています。
 
 「うちの子は頭が悪くて」とよく言います。これを謙遜と言い、美徳とさえ感じます。これを欧米人が聞くと「虐待しているのか?」と思うそうです。自分の子供を悪く言う親は、子供は自分の1部(違う人格とは思っていなくて)で、自分は優れていない、と言っているんですね。擬似母子関係は常に一体化を求めます。
 また、夫婦の事で、外に向かって結婚した相手の事を「誰ももらい手がいないので・・慈善事業で結婚してやった。」などと言います。言われたほうも笑っている事があります。しかし、二人だけの時は絶対そんな事はいいません。喧嘩の時だけです。
依存の強い関係は、内側の事は正確には話しません。むしろ秘密にします。
こうした夫婦の一体感を、外に見せる事で、仲が良いと思わせている言葉なのです。
 関係性が変ってきました、今そんなこと言うと、本当に離婚まで行きそうです。

 <してあげた、してもらった、裏切られた>は、相手に対して、自分の勝手な期待(甘え)がありますね。

 なぜ謙遜の文化が生まれたのか考えてみましょう。農業は人より優れていることは意味が無いからです(田植えや草取りが優秀でもたいした意味が無い)。それによって、<みな同じと言う和>から離れ、他者となることを恐れるのです。それより、コツコツとじみちに草取りをする、<努力>や<根性>が重要なのです。

  ーーいか④に続くーー


 

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genre : 心と身体

ストレス うつ病 人間関係の悩み

       ストレス・うつ病 人間関係の悩み ー ②
   アダルト・チルドレンAC <依存・支配>と自立について
             ①からの続きです。 ー 前書きを読んでくださいー
  

 ②  個人と社会との関わり方について-

 会社や国家・社会に対しても、今までの日本の伝統的な、人間関係を整理しなくてはいけません。
今までは、極端な言い方をすると、日本の社会全体が、母親と赤ちゃんの関係。(母親もその母親の子供であると言う関係)ー泣けばミルクをもらえ、赤ちゃんに泣かれるとオッパイをあげざるを得ないような関係でした。つまり<依存と支配の強い関係>ですね。会社・国家とは一心同体、言わなくても分かってもらえる。
 自分は自分で、相手の求めを、聞かなくてしてあげる関係でした。国家・政治家や上司・先輩に任せて、はいはいと言っておけば、それなりに悪いようにはしないと、暗黙の了解で、それなりに組織が成り立っていました。
 その象徴が武家社会の名残、終身雇用でした。会社を辞めてもOB会に出席し、亡くなっても肩書きが幅を利かせます。社長と労働者の関係、国家と国民の関係は、あたかも親子関係のようにたとえられました。
 家に帰っても社長は社長、先輩は先輩、社会生活の個人的な存在が少なく、会社や組織に属して、人生そのもの、会社が人格になってしまうような大人になっていたような気がします。

 日本人の社会の関係が母親と子供の関係と、書きましたが本当なんです。50・60歳の大人が飲み屋によって、ママ・ママと呼んで愚痴を聞いてもらっている光景は、まさに親子関係を求めているのです。(海外ではこの様な飲食店はありません、面白いですね)
 飲み屋に行かない人も、家で妻のことをママ・お母さんと呼んでいるのは、少しダブっているんではないでしょうか。
演歌のプリンス<氷川きよし>に熱狂するおば様達の目に、かわいい自分の子供のイメージが重なってはいないでしょうか(異性や大人としてではなく)。

 ちなみに、英語では先輩・後輩と憂い言葉や兄・姉、弟、といった言葉はありません。年上だから、面倒見る、尊敬する。年下だから、おごってもらえる、従う、と言う概念が、元々無いからです。(多少はあると思いますが)
 学校の教師と生徒の関係も、先生と呼ぶことはありません。外に出れば友人のように振舞います。
 このような日本人の関係を私は、擬似親子関係と呼んでいます。擬似親子関係以外の関係は、大人と大人、それぞれが違うもの(他者)と認識されている関係、自立された関係と言うことができます。

   見方を変えましょう。

 私達という概念の範囲が違うのです。日本人は相手と接するうちに、自然と内側と外側の区別を強調します。自分たち以外の人に対し、例えばこんな言葉によります「あの人たちは・・、あいつらは・・、」など、突き放して、かなりネガティブ(否定的)に使います。
外側の世界は、自分たちの対象外であって、関わりを持ちたがりません。無関心です。
 それに対して私達・内側に対しては、仲間同士の確認・同じであることを強調します。「~~でしょう↑。とか~~だよね。~~そうよね」。互いに同じだ、と言うことに感動し、違っていることに失望します。
 未だに、大都市以外では町内に引っ越してきた人に、町内の習慣を押し付けます。生き方・政治的思想や宗教は町内の集団と同じであることを求められます。
ただし、外国人だと「あの人達は違うから・・」と、違いを認められます。その代わり、ちょっと離れて、仲間に入れてもらえなかったりします。白人や黒人だとそうですが、
フィリピン人やタイ人・中国人だと、微妙。その辺が外側と内側のボーダーラインなのでしょう。


 だからグループの内側の中で、意見が違うと、なかなか言い出せません。
違う意見を言うと、とたんに外の人間、相手とは関係ない存在になってしまいます。PTAや町内会で意見を言うことができないのも、よそ者排除の力が働くからですね。村八分やシカト・いじめの問題もこうした関係もベースにあるのだと思います。(もう一つの重要な、競争社会については後に書きます)。
 人間関係において日本人は自分と同じ仲間であるか、そうでないかが重要なのです。(イギリスでもかつていじめが深刻でしたが、それは元々、イギリスの親が育児を、自分たち親では無くエリート集団に{学校寮とか・・=映画ハリーポッーターで出てきますね}委ねようとする考えがあるからだと思います。(集団で育てると、集団に帰属・依存しやすい)

 それに対して、欧米の関係は、生まれたときから、親とは別の部屋に寝て、私は私、親とも意見が違う。人と違って当たり前、意見も違って当たり前。したがって、私達という、共通の要素が少ないのです。私達(属する社会)と言う概念が希薄なのです。だから、<世間>と言う言葉も翻訳できません。頭の中に、自然に周りに合わせる(自己規制)と言う概念が無いのです。(まったく無いというわけではありませんが)
 


     農耕民族と・遊牧・狩猟民族の違い

 おおよそ、遊牧・狩猟民族であった欧米の文化は別々の動きが大切でした。鹿やウサギを追いかける時に、同じ方角から同じように獲物を追うと、逃げられてしまいます。それぞれが別の場所で、違う動きをしないと獲物をしとめることはできません。
時には一人の方が獲物を捕まえやすい場合もあります。
そういった行動パターンが、違うことも認める文化が生まれたのかもしれません。(キリスト教との関係は後で書きます)
それに対し、農耕中心の日本(アジア)は、田植え・治山・治水事業も、一緒に行動しないとうまくいきません。自然と、共同体意識・一心同体となる圧力が働いてくるのでしょう。
 自分以外が,他者ということは、社会の中で一人だけで孤立しやすい、という事もできます。それがヨーローッパやアメリカでの問題だと思います。

 また、リーダーについての関係性も違ってきます。狩においてリーダーの役割は重大です。指導者の能力によって、獲物の量が違ってきます。
農業は自然に作用されやすく、誰がリーダーでも、大して差が無かったりします。したがって、誰がするというより、和・<うまく人間関係をまとめるか>の方が重要なのです。
しかし、集団が崩壊する時は、強いリーダーシップが求められます。戦国時代や明治維新、にそのような人物が存在したことは、ご存知のとおりです。逆に今日本に強いリーダーシップを持つ人間がいないことは、集団が崩壊する時では無いと言えるかもしれません。
 競争も農業ではそれほど意味がありません。が、狩においては、獲物の取りあいです、競争の原理が働いてきますね。

 ーー以下③に続くーー

プロフィール

関本塾 岡崎市

Author:関本塾 岡崎市
愛知県の山奥生まれ、岡崎市に住んでます。そば屋を27年、足つぼマッサージ7年、三味線も弾きます。
 趣味はたくさん、山登り・音楽(作詞・作曲)・オートバイ・旅行(バックパッカー)・手作り工作・猫のミーちゃん・生物医学、などなど、
 癌になって気付きました。心と体の開放(生き生きする事)が1番大事だって!!

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