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ラオス報告 葬式 孤独 

 

ラオスの市場、子供たちが楽しそうに仕事手伝っていました。

 ラオスから帰ってきて、すぐ母が亡くなり、通夜・葬式、仏壇や位牌の手配と、なにやら不思議な世界に居ました。またすぐ東京に行ったり、そして大型連休に突入しました。
 一昨日は大阪から、川口さんが一泊していきました。30年来の頭痛が治ったそうで、お礼と遊びに来たそうです。今朝は早くから、うつ病のウーパーが足ツボに来ました。今は躁が出てますけど・・・、みたいな~~。

 私のトコは日・月以外が休みません。忙しかったです。

①  ラオス代替医療調査簡単に報告します 

とにかく暑かった、日中36度以上、汗ダクダクで、水ガブガブでお腹が変でした。

 ラオスはインドシナ半島の真ん中に、きのこの形のようにあります。前回はそのきのこの傘の付け根から北に行きました。今回はその付け根のビエンチャンから、一番下まで行ったわけです。
 これでメコン川を中国国境から、ベトナム・インドシナ海までウロウロしたことになります。今回は小さな町に泊まりました、多くて同じ所に2泊ぐらいしかしませんでした。ですからのんびりする事はなく、とっても忙しかったです。三味線を弾くこともありませんでした。ですから旅としては、いまいち、イベントも無く、普通でした。
 ですけど、忙しさの中に、しっかり日本で,身にこびりついてしまった、あか(ストレスの基)が取れすっきりしました。リュック背負って歩いてても肩の凝りが治りました。

 世界金融危機のおかげで、タイもラオスも外国人はめっきり減っていました。マリファナもアヘンも表道りからは姿を消していました。
 代替医療は山奥に行っても、現代医療への信仰が浸透していました。携帯もしっかり普及していました。
世界のどこに行っても同じ、共有・同化の傾向が強まっているのです。<では、すでに同化しているものは何なのか?そのことをずっとを考えていました>
したがって、面白そうなものは、ラオスの漢方薬とラオス伝統マッサージでした。強い焼酎もありますよ!、何か草木を入れて強勢剤として売っています。
 食べ物も、昆虫や見たことのない野菜やキノコ、食べてます。体にいいのか悪いのか、分かりません。
 あと面白かったのは、男性の女装した呪術・占いのような儀式と踊り。手首に紐をつけたりてお金を渡してりしてました。巫女のような人がトランス状態になって、バケツの水を一気にかぶったりして、面白かった。これも代替医療の一つなんでしょう。僕は、飲み物とか食事をご馳走されました。僕はどこでもそうなっちゃいますけど・・。
 簡単に報告すると、こんな事になります。ちょっと簡単すぎますけど・・・!

② あと葬式など、仏教の伝統儀式について、 

僕は経験が無かったので、見る事する事がラオスの少数の儀式を見ているようで、「トラデッショナル、!」面白かったです。戒名などは、やっぱり要りません。葬式もやっぱりいらないな~~と確信しました。 僕は母との関係が複雑で、亡くなったたら僕の感情も変わるのかな?と思っていましたが、今のところまったく、感覚も考えも変っていません。

③ あと川口さんと話しました。 

川口さんに、吉谷さんが「ある時、孤独感に襲われた。」と話すと、私は若いころずっと孤独でしたから、何でもありません、と話していました。よく考えると、この僕も物心つくころから夏江さんと会うまで、しっかり孤独だった事を思い出しましたl。(ちょっと、ジーーンとしました)

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ラオス つづき

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メコンのナマズ、おいしい!

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カエルの干物

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海の魚に似ている

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キノコ類はたくさん食べられている。ラオスは山国

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昆虫の幼虫、普通に売られている。

ラオス 代替医療 生物 足つぼ 関本塾 sekimotojuku

 15日間ラオスに<代替医療の調査>に、行ってきました。
 無事帰ってこれました、感謝!。ビエンチャンからカンボジア国境まで。
これで、メコン川を、中国・ビルマ国境から南シナ海まで走破(?)しました。
写真は、ラオスの耳掃除屋とメコンを渡るイカダ。メコンの魚。
ラオスの人の足(すごくしっかりしてます)。
飲んでるのはサトウキビジュース24円・耳掃除48円でした。

分かった事、生物は<拡散と収縮>=異質を求め、同化を求める。
拡散は多様化・異質化でもあり自立につながり。
収縮は同化・同質化、依存と支配の関係でもある。
拡散する力は収縮より少し大きい。
収縮し過ぎるとストレス、拡散し過ぎるとマイナス・ストレス。
ともに大きいと死滅する。でした。

 

⑥ 人間関係で世界を見る その6 関本塾 足つぼ ガン うつ病 心の病

 

できれば①から見てください。http://sekimotojuku.blog43.fc2.com/blog-entry-29.html

     神・仏や目覚めとしての他者   その6

 すでに神・仏のことを書いていますが、実はこのことが書きたくてこの関係学を書いているんです。しかし、神・仏の”そのもの事”は信暁さんや森山さんの方が、よっぽど知っていますので僕は書きません。ですから、その外側のことを書こうと思います。

 昔は、仏や神様の像を見て拝んだものですが、今は様子が違うようですね。今ではパソコンが仏像、ウィンドウズ(OS)が御神体、のようです。あなたはマッキントッシュが御神体かもしれませんが・・。
 真顔で宗教を信じていると言うと、危ない人かも? と思われそうですね。周り(他者)が見えない新興宗教か? とすぐ思います。でも、ここで言うのは伝統宗教です。

 私達がよく目にする宗教は”信じなさい”と言う文句ですね。しかし、元々宗教は「信じる」とか「信じない」とか言うものでは無いんですね。
 信じるには相手が要ります。はっきりした相手なら尚良いんですが、声も姿も見る事はできません。見えないものを信じることはなかなか出来ないのです。そこで、絵画や像が出来るんですが、それ自体に神・仏はいない様です。世の中で、「信じてください」、と言われたら、それは信じないほうが良い。自分が、人から信じられない状況に居るから、信じてくださいというからです。(まったくの、余談でした)

 日本の僧侶は「仏の存在を証明しろ」、などといわれることは無いでしょうけど、言われたら困るでしょうね。突き詰めれば、相手の存在が確認できないから、証明も信じることは出来ません。
 そう言われても無理なんです。神・仏の事は私達の存在を越え、外側包むモノなんですから。
 哲学・文学・物理や数学等でで考えている考えは、あくまでこの人間社会の物、私達の産物です。ですからそれ以外の世界は元々無理です。考える事、理解する事では出来無いんです。出来る事は”感じる”事だけなんです。
 そして感じたことを自分たちの社会に合わせて表現する事になります。そして、いろいろな聖典・聖書が出来、そしてその解説書が出ます。あくまでも、人間の解釈です。
ですから、恣意的に作られた物や、個人の思惑で捻じ曲げられた物もあると思います。何が正しいか、歴史に証明を求めるしかないんです。そこで伝統宗教と、前置きしたのです。
 

 先ほど<証明できない>感じるしかないと言いましたが、”感じる事”も証明できません。

感覚を共有する事も困難です。この共有する事の困難さは、絶対的他者である事の故の物なのです。つまり、個人(私)と対面するしかないんです。信じようと信じまいと、その人の勝手・自由で、私達の世界ではないんです。(教団とか・宗派はありますけど、その宗派の1番偉い人が信じているか・感じているか、はどうかは誰にも分らないんです)。
 面白いですね。究極です。つまりどんなに文明が進歩しても、賢くなっても、人間が人間である限り、自分たちの外側の世界は理解できません。
 しかし、感じる事はメッセージを受け取ることでもあります。このメッセージこそ宗教が伝えてきた物だと思います。そのメッセージを集団で受け取ることがあるのか?、と言いますと、今のところ分りません。たぶん無いと思います。なぜか僕は1対1のみのような気がします。皆さんはどう思われますか?

 ではその集団に属すると言う事、(出家や洗礼や告白)は無意味かと言うと、そうではないと思います。先人の知恵を含んだ神・仏の姿に触れる事が出来るからです。また同じ志人と集う事は、更なる理解につながるかもしれません。
 先に”感じる事は共有できない”と書きましたが、人を通して感じる・神・仏に触れる事もあると思うからです。この触れるは英語の<FEEL>ですね。”感じるとか軽く触る”と言う意味です。スーパーの名前になってしまいましたが、僕はこのFEELと言う感じが好きです。
 つまり、その宗教的集団に属していることは、<私達の世界>を広げる意味において良い事だと思います。

 しかし逆の場合もあります。<私達>と言う仲間意識を強めようと、周りの壁を高くすると、自分たち内側だけ見る世界になってしまって、他者や絶対他者(神・仏)のメッセージが受け取れなくなってしまうからです。宗教はこのメッセージが受け取れなくなったら、おしまいです。だからまともな宗教は、常に世界の出来事・紛争や貧困や、政治の事に関心を持ちます。
 また、自分たち自身が「私はクリスチャンだから、こうする」、「私は仏教とだから、こう考える」と、自分の本来の姿・思考が止まっては、意味がありません。本来、絶対他者に触れると言う事は、何者にもとらわれない自分に戻る事、自由になる事なんです。
 政治の世界でも、「私は自民党だからこうする」でも共産党に変わったら、今度は反対の事をする。では自分が政党を離れたらどうするのか、自分の意思がどこにあるのか、いまいち不明です。宗教も同じです、自分の立つ位置を確認する事・自分は何なのか?でもあると思うんです。
 公務員としてではなく、会社の役としてではなく、日本人としてではなく、おばさんとしてではなく、老人としてではなく、中学生としてではなく、親としてではなく、障害者としてでなく、美人やそうでない人してでなく、1流大学出身として出なく、無職としてでなく、代々先祖からの家名とー、軍人とー、妻とー、犯罪者と-、子供と-、-、。

 それをとったら自分に何が残るのか・・?。、自分を規定する枠の中で考えるのでは無い自分を見つける事なんです。まったく別の世界から見れば、上記の事はまったく関係無いのです。 

 まず自分と”信じられたもの・感じられたもの”があって、それから、宗教団体があるのです。(これは時間的な距離感とかではなく、頭ん中にある関係です)
 そう思うのですが、これは皆さんの勝手ですよ。信仰については、。私の感じたまま書きました。
そういうものではないかな~~と、思った、思う、それで良いのだとおもいます。

 と言う事で、ぐだぐだと書いてしまいました。最後にSさん<自分~絶対他者>までの関係を、体験から書いてもらいました。と言う事で<第2章 ー 人間関係で世界を見る >を終わりにしたいと思います。長文、読んでくれてありがとうございました。ああ!疲れた ! さ~~て、何人読んでくれたやら、っと!^^!


       他人として愛される事や、愛する事
 
 依然こんな事がありました。僕が癌になって病院から一時帰ってきた時です、妻に「病気を代わってくれる~?」と、聞いたら「代わってあげない」と、言いました。また「僕が死んだら、葬式はしないでほしい」と言ったら、「そんなこと、死んだ人には関係ない、私の好きにする」と言いました。「僕の葬式なのに・、・・ん・・・?」。
 こんな関係をある人達は、愛情が少ない関係・身勝手な考えと思うでしょうね。でも、それは(代わる事は)出来ない、真実なんです。病気は代われない、死んだら自分は、自分の葬式にも出られないんです。
 たとえ夫婦でも(親子でも)、何年一緒に生活しても、見えている世界はまったく違うのです。感覚も、死ぬ時も、まったく違う世界に住んでいるのです。突き詰めれば他人同士の関係なのです。
 生きたり死んだりするのは<私達>の中ではくくれないんです。<私が生きて、私が死んで行く>のです。他人とは「どうでもいい世界」、と言う事になります。
 しかし、そして、結局、自分しかいない世界で、私(私達)以外のものを愛せるか?、どう愛するか?。そのように理解して、巣立っていった子供や夫や妻、友人を『他人として愛する事ができるか?』、と言う事なんですね。
 他人を愛せるかと言う事は、遠い国の人や敵を愛せるかと言う事ではなく、私達・身近な人間と思っている世界の中にあるんです。と言うよりそこから始まるのかもしれません。
 
 他人として愛される事や、愛する事が感動するんです。感動したんです!それが言いたかったんです。別の言い方だと、神様や、仏様の慈愛・慈悲の表れ、かもしれませんね。


            僕の願いを聞いてくれない神様。
 
 私は神や仏の自愛・慈悲を感じる事は時々あるんです。でも頭では納得できませんでした。〔普通は逆だと思うんですけど、やっぱり私はヒネてますね。(普通はお寺や教会に行ったり話を聞いて理解して、感じると思うんですが)〕
 なぜなら、仏はインドの世界で語られ、キリストはパレスチナの世界で語られたものであり、どう考えても日本人の私が含まれる世界とは納得できなかったからです。
 私は、私の愛情・愛の世界は<私達>の世界にしかないと思っていたんです。そして、もし神の愛があったとしても<私・私達に>のみ働くと思っていたんですね(信じてる人達とか、何かの集団=国家とか民族・優しい人達とか)。 でもある時、違っている事に気づいたんです。
 つまり愛や慈悲は、神や仏にとっては関係ない、人間や命に対して、向けられているものだったんです。言ってみれば、神・仏にとって人間とは関係ない存在。(私達の世界を超えた存在・異次元・理解を超えたもの・人間の仲間では無いもの)。そして、その愛や慈悲は、<私や私達>だけにでは無い者に対しても同じように注がれると思ったのです。(すべての命に対して)

 つまり、インドやパレスチナに住んでいようがいまいが、性格が悪かろうが、仏やイエスにとっては関係が無いいうことです。
 聖書・聖典はその時の人間が神・仏について書かれたもので、時代によって同じものでも見え方が違うということです。たまたま、インドやパレスチナだったんです。そして、それぞれの宗教・宗派が正しいと主張しても、それは勝手な解釈で、その事は神・仏とは直接係わりが無い事だったんです(今まで学校で学んだ宗教の知識は、本質とは直接は係わりがないものなんです)。
 つまり、元々神・仏が存在するのならば、イエスやブッダが生まれるズーット以前から、神・仏は存在していたのですから。

 もしイエス・キリストが今の時代に復活して、この現実を知り・宗教の争いを知ったらなんと言うのでしょうか?。彼の死後、人々は勝手にキリスト教を作るは、聖書を作るは、勝手にイメージを膨らませたり、削ったりしているわけですから。彼の生きている時代はキリスト教は無く、彼の信者が作ったのです。彼は自身をユダヤ教徒と思っていたんです。もっとも、死んで3日経っただけで、復活した彼を誰も信じなかったんですから、イエス自身は驚きはしないと思いますが。
 仏教も似たようなもの、ブッダ(ゴーダマシッタアルタ)自身は仏教など作った事を知ら無いと思います。
 依然、僕は宗教者がよく言う<私達の神>と言う言葉を聞き、勘違いしていました。神や仏は自分達(宗派の)の所有物のように思っていたのです。ところが、所有しているのではなく”彼らから所有(?)されている・つつまれている”と言う意味だったんです。(服従する関係では無いんですが。)

 

 本当の神様は人間の都合のいいように、願いを聞いてくれません


 だから信じても意味が無い、と思ってたし、都合よく効いてくれるものなら信じたでしょうね。しかし、もし思うようになったら、自身の問題に気づく事が無いからです。
 でも、思い返したのはそう理解してからではありません。癌になった事・死ぬと思った事で世界の見方が変わりました。そして、他人の慈悲に触れました。そして、ある時の出来事がだんだんと自分に理解できる気がしてきたからです。 
 その事は人に信じてもらうとかもらわないとか言う事では無いので、あまり言いませんでした。

 ――、 ある時、タイの知人の家で目をつぶって、人の話を何気なく聞いていると、眼をつぶっているにもかかわらず、しっかりとあるものが見えました。その動きははっきりと意思がありました。今まで知らない別の世界から、照らされました、見られました、すべて見透かされました。まったく別の世界から、そう確信しました。
ですけど、その意味・メッセージの深い意味は分りませんでした。しかし、その1年後今度はカンボジアのホテルで起きました。

 最悪の環境、最悪の部屋、シャワーも真っ赤な水、耐えられない暑さの夜、眠れないで居ると、
突然まぶたの内側に映像が移りました。今回ははっきりとその意思が伝わってきました。
 感動でベットがぬれるぐらい涙が出ました。そして立ち上がってバスルームに行き、茶色の水で顔を何度も洗いました。あとにも先にもこんなに涙が出た事はありませんでした。
 自分は幸せな生活をしてきたつもりでした。しかし、この感覚はまったく知らない、幸せの世界でした。ある意味で僕は絶望していたのです、初めて気づかされました。
 そのメッセージはこうでした、「安心して生きなさい。あなたの命は数千億の命の繋(つな)がりの中にいるのです。」。 言葉ではありませんでした。この最悪の環境の中で(いつもだど苦しい夢を見る状況で)、なぜなのか?。はっきりと感じました。
 「安心して生きなさい」。そう言っているのでした。――。

                                     ( 第2章の )  終わり

⑤ 人間関係で世界を見る その5 関本塾 癌 うつ病 岡崎 sekimotojuku

できれば ①から見てください。
 
            人間関係で世界を見るーその5

動物や自然との関係は他者であり、私達でもあります。

 草花や動物・自然は基本的に、僕ら人間とは理解しあう事はできません。理解を超えた他者です。しかし時として、人間は他の生き物や自然からメッセージをもらいます。

 僕は夜空を見るのが好きです。オーストラリアやニュージーランドでは毎日見るのが日課でした。タバコの時間でもあるんですが・・。
満天の星、夜空に散らばる星達の輝きを見る時、人は感動します。この感動はどこから来るんでしょう。
 自分の中から?、それとも自然から与えられる?、。多分、両方でしょう。人間で無ければ感動しないでしょうし、人間〔私達)の力を超越した世界との出会いが無ければ感じません。
 毎日見ていると感動も薄れますが、若い時は興味が無かったありふれた自然にも心が動きます。(若い時は、異性やポップ・カルチャーですね、それが外の世界だったんです。それはそれで感動しました。)

 上の場合は”自然”に対して感じるものでしたが、自分の人生や経験から感じる他者もあります。例えば次の言葉です。 
 ”縁”という言葉。「縁あってこの人と出会いました」とか「縁があったんですね~~」の縁です。
 これは善意ある他者ですね。もし不幸と感じているのなら、この縁を感じることが出来ないと思います。が、おかれている立場・状況では無いんですね。たとえ刑務所に居ようが、感じる人は感じます「今この刑務所に居るのは、おかげさま、縁ありまして」となるわけです。(へんな例ですね)
 不満ばかりの人は悪意ある他者を感じるかも知れません。その人に生き方の問題もあります。確かに、”こうでなくてはならない”とか、望み希望が多かったり高かかったり・比較でものを考えたり、すると、周りの善意は気がつきません。
 しかし、自分に責任がすべてあるとばかりは言い切れません。人間は私達の存在から離れては生きられません、そういう世界に育ち・生きていかざるを得ない場合もあるからです。そのことは自然に触れて、どのくらい感動するかと同じですね。
 自分で何とかなりそうな、そうでなさそうな。僕はその辺のあいまいさが好きなのですが、人間の体そのものも、そういったバランスの上に成り立っているんです。

 必然的なこともあります。①忙しい事 ②入ってくる情報量が多い事 ③一人にならない事、④体を使わない事、をしていると誰でも自分ばかりの世界になり(自己が拡大〔エゴ〕し)、他の世界が無くなります。ストレスも感じます。善意の他者からのメッーセージを受け取れなくなるからです。現在はそういう時代なのです。
 それを避けるのは、その逆をすれば言いのです。するべき事を減らして、ゆっくりする・、現実から離れる時間を作るべきだと思います。なぜこんなにすっきり書くかというと、いつも考えているからです。現代の病気の原因がそこにあると思うからなのです。

 この自然や経験から来る他者は、信仰が在ろうと無かろうと人生を豊かにします。
 他者からのメッセージを、アメリカインディアンのラコタ族は、知恵・伝承として今も伝えています。しっかりした他者の存在を感じ、感動しました。以前ヤフーブログに紹介しました。よかったら見てください。

 伝承と言いましたが<大地の神>の事も含んでいます。アバウトに数式みたいに書くとこうなります。自分が中心の円になっていると思ってください。あくまで私が考えた<脳の認識領域>の全体像です。
自分+私達 > 他者 ≒ すべての世界・自然 ≒ 神(大地の)
 すっきりしてます。ですから、自然のような感動を覚えるんだと思います。

 現在の神・仏感を様式化してみると、
自分 > 私達 > 他者 ≒ すべての世界・自然 > 神・仏
神・仏がすべてをつつむ概念になるので、よく分からなくなると言えば、よく分らなくなるのです。

 無神論では
自分 > 私達 > 他者 ≒ すべての世界・自然 ≒ 理解できない世界

 日本人は信仰はなくても、ほとんど無信論者は居ないと思います。科学信仰や権威信仰ですね。ヨーロッパでは確信的無神論者が多いんです。徹底的に否定します。
 宗教が民衆を苦しめたり戦争をしてきた事なのでしょうか。ギリシャ・ローマの時代から、十字軍・宗教改革による戦争で、数百万(?)の市民が死にました。死を前に神の存在を徹底的に、合理的な答えを求め続けた結果でしょう。
 日本人は「仏の存在を証明しろ」、と僧侶に問いません。日本人は自分達より大きな意思の存在をどこかで感じていると思います。無神論はそれを否定する事だと思っています。上の図の関係のようにです。違うかな?。
 無神論の事を書こうと思いましたが、次の回<第3章 総論>で書くつもりです。無神論が建前のソビエトや中国。なぜ共産主義や社会主義はうまくいかず、キューバはそれなりにうまく言っているのか?、。面白いですよ!。 

 この他者を考える事は、一時でも人間が作った関係(現実)から離れることなんです。出来るだけ、実際の空気や触る事によって感じることが大事です。テレビや映画、パソコンで自然の映像を見ているだけでは枯れていきます。パソコンに噛り付いているようでは、本当のおいしさは味会うことの出来ないのです。僕毎日パソコンに噛り付いてますけど==!、休みはあまり触りません。
 
       ラコタの言葉  http://blogs.yahoo.co.jp/sekimotojuku/MYBLOG/yblog.html?m=lc&p=9  

若き日々、世界と生命を敬った。 心の平和があればよかった。
だが、知らぬ間に私は変わり、  イクトゥミの嘘を信じた。
イクトゥミは真実をすべて知っているように見えた。
そして、彼は私の幸せを約束した。

私は彼に言われるまま、ワカンタンカ(世界の創造主)に富を求めた。
力を手にするために    しかし、わたしは貧しさを与えられた
内なる強さを見つけるために

わたしは名声を求めた   世界がわたしを知るために
しかし、私は名もなき人生を与えられた  自分自身を知るために

私は愛する人を求めた   けっして独りにならないように
しかし、わたしは隠者の人生を与えられた  自分自身を受け入(愛する)れるように

わたしは権力を求めた   この手で成功を勝ち取るために
しかし、わたしは弱さを与えられた  従う(受け入れる)ことを学ぶために

わたしは健康を求めた   長寿がもたされるために
しかし、わたしは病を与えられた   一分の価値を知るために

わたしは母なる大地に力を求めた  思いのままに生きるために
しかし、わたしは弱さを与えられた  大地の尊さを感じるために

わたしは幸せな人生を求めた  日々の暮らしを楽しむために
そして、わたしは生命を与えられた  幸せな人生を生きるために

求めたものは何一つ手に入らなかった
だが、私の願いはすべてかなった
わたしも、イクトゥミも知らぬ間に
わたしの夢は果たされた
わたしは豊かな祝福を受けた
願った以上の祝福だった
ワカンタンカ(すべての創造主)よ、ありがとう
あなたが与えてくれたものに感謝の歌をささげよう     

へつづく  http://sekimotojuku.blog43.fc2.com/blog-entry-34.html  

 

プロフィール

関本塾 岡崎市

Author:関本塾 岡崎市
愛知県の山奥生まれ、岡崎市に住んでます。そば屋を27年、足つぼマッサージ7年、三味線も弾きます。
 趣味はたくさん、山登り・音楽(作詞・作曲)・オートバイ・旅行(バックパッカー)・手作り工作・猫のミーちゃん・生物医学、などなど、
 癌になって気付きました。心と体の開放(生き生きする事)が1番大事だって!!

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