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42 何故ノーと言えないの?悲劇から立ち直れない日本人?
私は仲間と共に議会や市役所・文部省等に、請願・陳情・質問状など沢山出してきました。しかし、そのほとんどが、無視されるか議論も無しに棄却されました。オランダの市議会を傍聴した時の事ですが、「どうぞお入りください」と、外国人である私を議場に招き入れてくれました。その後も、議員と気軽に質疑が出来る環境が整っていました。スウェーデン政府に手紙を出した時も、責任者の署名入りですぐに返信がありました。この開かれた政治の様子は、経験しないと分かりませんね。その後ドイツでの<緑の党>の議員との会談は、こうした経験があって、日本では出来ないけどドイツでは何とかなると出かけたのでした。
日本の場合は、市長にすらなかなか会えません。何度も面会を要求しましたが、しかるべき方法でないと会えないのです。彼らの村社会のルールに則るか、入らなければいけないんです。言ってみれば肩書き・縁故・後援会ですね。何故会えないか?、市民である私は、市長にとって関係ない存在だからです。市役所もなかなか市民の話を聞いてくれません。親しくなって、甘え甘えられる、ナーナーの関係になると少しは叶います。んんん・・、どうも変だ。私のイメージの民主主義とだいぶ違う。
そこで、どうやって日本の行政と戦う(?)か?と言いますと。ほとんどの場合、個人で言っても門前払いです。肩書きがあれば良いんですけど、肩書きのある人は世の中にしっかり馴染んでいますので抗議・要求には参加しません、それだからこそ肩書きを与えられたんですけど・・。ですからこちら側も、<村>みたいなものを作って対抗します(向こうから、そう見えるという意味です)、団体ですね。そして、徹底的に外部者の姿勢を通すのです、彼らに馴染まない事です。それだけです。外部者としての姿勢がよく分かりませんね、違う価値観や文化で話すという事です。つまり彼らの意識を<村社会>の外に出して行くのです。行政側に<今まで処理してた様に、「前例が在りませんので、出来ません!」ではいかないぞ!>と、思わせる事です。簡単に言うと、外圧ですね。団体旅行の集団のように、村社会は外部・外圧に弱いからです。そうすると、ようやく本当の責任者らしき人が出てきます。後は、交渉しだいです、<村社会>に生きてきた人間は、外に出ると弱いんです。この<本当の責任者らしき人>、とは市長や議員ではないんですね。そこが面白い!この事は江戸時代の支配構造で書きましたので・・。
元東京都知事の石原氏は昔、「ノーと言える日本」という本を出版して自らの主張をしようと問いかけましたが、でも何故ノーと言えないのかは分かっていないと思います。村社会に住んでいる人達は集団としてはノーと言えるんです(時間がかかりますけど)。ただし、個人では言えないんです、その事がこの世界において一番問題なのです(集団ではなく、あなたはどうなんですか?と聞かれる世界です)。そのノーと言えない理由が、集団への強い依存なんです。同時に、<みんなもノーじゃなきゃいやだ>ではなく、僕はノーだけど、みんなはイエスでもいいよ!と言えることです。果たして、ご高齢になっても<日本民族>にこだわる石原さんに言えるのでしょうか?。