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① 人間関係で世界を見る  第2章  その1 足つぼ 関本塾 うつ病

 人間関係で世界を見る  第2章  その1       

        「『人を愛するより、歩きなさい』、ですね!」 

 ハマコさんは言った「『人を愛するより、歩きなさい』、ですね!」 。人を愛するのは難しい、それよりも歩く事のほうがやさしい。と言う意味だそうですが、毎日歩くのは人を愛するほどに難しいという意味でもあるんですね。
 「『人を愛するより・・」この人というのは他人と言う意味だと思います。
 実は他人という存在に気がつくのは、本当に難しいんです。日ごろ私達は私達の中で暮らしているからです。
 民族主義というのがあります。日本の国や日本の文化が立派である事を主張して存在を求めていきます。一方に世界主義というのもあります。どの民族・国家も同じく尊いという世界平和を求め主張します。
 反対の主張のように双方対立していますが、実はそうでもないんです。私達という定義が違うだけだったりするからです。両方とも宇宙人からすると敵対的でもあります。
 『私達』と言うとき、家族を指しますか?友人仲間、自分の会社を指すか、国家?人それぞれ違います。場合にもよります。
 つまり自分の利害の及ぶ範囲の事を指します。では私達ではない世界、他人の世界はどうでしょう、行った事のない外国ですか?。ご近所さんでも話さない人や、嫌いな人は他人ですね。つまりどうでもいい世界なのです。

 よそ事で思い出します。北京オリンピックの時で、イギリスやフランスでチベットの自由を求めて、一般市民が抗議活動をしました。自分の中でオリンピックとチベット問題を並べて考えたわけです。つまりどっちが大事か。一方、一部の日本のアスリートや評論家は「こんな時にしてほしくない」、と。自分は純粋にスポーツを楽しみたいのだと言っていました。 つまり自分とは関係ない世界、別の世界、と言っているわけですね。

 自分の世界観、意識の広がりが、『私達』の範囲を広げていくわけです。だから日本人でもロシアに友達や家族がいて、自分の会社があれば、日本がすばらしく、1番エライとはならないのです。
 したがって今の時代は、世界平和が、地球が1番大事となるわけです。自分のはいている靴下や、服を見てください、ほとんど中国製です。会社で働いて作っているものは海外に輸出されています。そもそも、民族主義は孤立・内側に向かってのみ主張されるものかもしれません。世界と貿易をして成り立っている日本は、もはや世界に自分達が1番などとは言えません。知っていようといまいと、私達の服を作ってくれたり、食料を作ってくれる友人を世界中に持っているのです。(世界で孤立すれば別ですが) 

  また話はそれますが、


世界の歴史はこの<私達>と<私達>の戦いの歴史でもあったわけです。民族とか国家です。人種による差別や偏見もこの仲間です。黒人奴隷を使っていた世界では、「同じ人間なのに奴隷として使っていいのか」という内部の矛盾に対して、キリスト教は「彼らは人間では無い生き物」と言う判断で<私達>から排除しました。(その後謝罪しました) 
  ヒンズー教の社会では、数千にのぼるカーストで人間を区別し、そのまた、それ以外のものとして<アンタッチャブル=アンダーカースト(カースト以下)>という区別をしています。20世紀を代表する平和主義者ガンジィーも、この問題に対し「ハリジャンとして崇めよ」、と言っています。つまり名前を変えるだけ、生まれ変わっても代わらない、こじきはこじきと言っているわけです。大きな<私達>の仲間には、生まれ変わっても入れません。
 ユダヤ教も神道(氏神・地域信仰)も<私達>という規定があり、それ以外のものは時として敵になります。別の宗教、例えば仏教は<生き物・人間は>とか、<仏と自分の関係>を説いていて、<インド人はとか><どこどこの者は>とか、説かれてはいないと思います。
 新約聖書(キリスト教)の世界観も「神は私達にこう言われた・・」、と常に2人称で語られ<私達の規定>それ以外の者を閉じ込めてはいません。
 話は宗教へ入ってしまいましたが、私達の頭に中に<他者>を取り込む事が、自由になる事・ストレスを減らす事、に重用だと思っているからです。信仰〔本当の〕は他者を認識する事だと思っているからです。後に詳しく述べます。

 さて、この世界と利害関係によって結びつた私達は、他人とはいったい何になるんでしょう。 宇宙人?孤立した北朝鮮のような国家? そう、私達はこうして内と外を分けて考えます。「愛するもののため」「世界のため」「地球のため」。それは全部自分の世界ためです、自分のためを含んでいるのです、言ってみれば拡大・肥大したエゴです(もしあなたが宇宙人で無ければですが)。

 では他人を愛するとはいったいどういうことなのか?

もう1度、私達の意味を考えてみると、こういうことになります。同じ様な遺伝子を持つ仲間、同じような価値観を持ち、理解しあえる環境にある、または可能性がある仲間。これを広く考えるとすべての生き物になりますね。面白い!。他人がいなくなる。
これを狭く捉えると、私達という言葉は無くなって、『私』 だけの世界になります。
たぶん生物的には広い意味でしょう。つまり食べたり食べられる関係でも、同じタンパク質を交換し合って生きているのが生物ですから。

 人間はと言うと、自我があります。自我がなぜ生まれたのか諸説あります。私は次のように考えます。
  親の中から出た個体〔子供〕が、親から離れ、敵味方・繁殖の相手だけでない関係の中での違いを認識した時に〔群れの中での行動欲求の違いや、生と死の違い]、自我が生まれてきたと思っています。
 つまり徹底したわがままや、ほかの仲間とは違うと言う事が、自我の本質であると思うのです。したがって、私たちが、使っている『私達』の意味は、あいまいに使えば使うほど自我があいまいになっていきます。私が無くなって、私達が多くなります。つまり、「私達が・・」を連発していると、本当は自分はいったい何なのかわからなくなり。「私が・・私は・・」と、連発していると、自分だけの世界になります。
 自我が生まれ、大脳の活動が拡大してできたのが、私達という<拡大した人間関係の概念>だと思います。
  普段は<私と私達>を意識して区別してはいませんが、この行ったり着たりの間で人は暮らしていると思います。しかし、意識の中で、なかなか他人は登場しません。
 一般では、<私の世界>がエゴイズムでいけない世界、<私達の世界>と言うと博愛主義で、立派な世界と言う事になっているんです、一般的にはですが。しかしそれも内内の世界であり、外・他人から見たらどうでも良い世界なのです。
                                    以下     続く

http://sekimotojuku.blog43.fc2.com/blog-entry-30.html


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プロフィール

関本塾 岡崎市

Author:関本塾 岡崎市
愛知県の山奥生まれ、岡崎市に住んでます。そば屋を27年、足つぼマッサージ7年、三味線も弾きます。
 趣味はたくさん、山登り・音楽(作詞・作曲)・オートバイ・旅行(バックパッカー)・手作り工作・猫のミーちゃん・生物医学、などなど、
 癌になって気付きました。心と体の開放(生き生きする事)が1番大事だって!!

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