スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

⑥ 人間関係で世界を見る その6 関本塾 足つぼ ガン うつ病 心の病

 

できれば①から見てください。http://sekimotojuku.blog43.fc2.com/blog-entry-29.html

     神・仏や目覚めとしての他者   その6

 すでに神・仏のことを書いていますが、実はこのことが書きたくてこの関係学を書いているんです。しかし、神・仏の”そのもの事”は信暁さんや森山さんの方が、よっぽど知っていますので僕は書きません。ですから、その外側のことを書こうと思います。

 昔は、仏や神様の像を見て拝んだものですが、今は様子が違うようですね。今ではパソコンが仏像、ウィンドウズ(OS)が御神体、のようです。あなたはマッキントッシュが御神体かもしれませんが・・。
 真顔で宗教を信じていると言うと、危ない人かも? と思われそうですね。周り(他者)が見えない新興宗教か? とすぐ思います。でも、ここで言うのは伝統宗教です。

 私達がよく目にする宗教は”信じなさい”と言う文句ですね。しかし、元々宗教は「信じる」とか「信じない」とか言うものでは無いんですね。
 信じるには相手が要ります。はっきりした相手なら尚良いんですが、声も姿も見る事はできません。見えないものを信じることはなかなか出来ないのです。そこで、絵画や像が出来るんですが、それ自体に神・仏はいない様です。世の中で、「信じてください」、と言われたら、それは信じないほうが良い。自分が、人から信じられない状況に居るから、信じてくださいというからです。(まったくの、余談でした)

 日本の僧侶は「仏の存在を証明しろ」、などといわれることは無いでしょうけど、言われたら困るでしょうね。突き詰めれば、相手の存在が確認できないから、証明も信じることは出来ません。
 そう言われても無理なんです。神・仏の事は私達の存在を越え、外側包むモノなんですから。
 哲学・文学・物理や数学等でで考えている考えは、あくまでこの人間社会の物、私達の産物です。ですからそれ以外の世界は元々無理です。考える事、理解する事では出来無いんです。出来る事は”感じる”事だけなんです。
 そして感じたことを自分たちの社会に合わせて表現する事になります。そして、いろいろな聖典・聖書が出来、そしてその解説書が出ます。あくまでも、人間の解釈です。
ですから、恣意的に作られた物や、個人の思惑で捻じ曲げられた物もあると思います。何が正しいか、歴史に証明を求めるしかないんです。そこで伝統宗教と、前置きしたのです。
 

 先ほど<証明できない>感じるしかないと言いましたが、”感じる事”も証明できません。

感覚を共有する事も困難です。この共有する事の困難さは、絶対的他者である事の故の物なのです。つまり、個人(私)と対面するしかないんです。信じようと信じまいと、その人の勝手・自由で、私達の世界ではないんです。(教団とか・宗派はありますけど、その宗派の1番偉い人が信じているか・感じているか、はどうかは誰にも分らないんです)。
 面白いですね。究極です。つまりどんなに文明が進歩しても、賢くなっても、人間が人間である限り、自分たちの外側の世界は理解できません。
 しかし、感じる事はメッセージを受け取ることでもあります。このメッセージこそ宗教が伝えてきた物だと思います。そのメッセージを集団で受け取ることがあるのか?、と言いますと、今のところ分りません。たぶん無いと思います。なぜか僕は1対1のみのような気がします。皆さんはどう思われますか?

 ではその集団に属すると言う事、(出家や洗礼や告白)は無意味かと言うと、そうではないと思います。先人の知恵を含んだ神・仏の姿に触れる事が出来るからです。また同じ志人と集う事は、更なる理解につながるかもしれません。
 先に”感じる事は共有できない”と書きましたが、人を通して感じる・神・仏に触れる事もあると思うからです。この触れるは英語の<FEEL>ですね。”感じるとか軽く触る”と言う意味です。スーパーの名前になってしまいましたが、僕はこのFEELと言う感じが好きです。
 つまり、その宗教的集団に属していることは、<私達の世界>を広げる意味において良い事だと思います。

 しかし逆の場合もあります。<私達>と言う仲間意識を強めようと、周りの壁を高くすると、自分たち内側だけ見る世界になってしまって、他者や絶対他者(神・仏)のメッセージが受け取れなくなってしまうからです。宗教はこのメッセージが受け取れなくなったら、おしまいです。だからまともな宗教は、常に世界の出来事・紛争や貧困や、政治の事に関心を持ちます。
 また、自分たち自身が「私はクリスチャンだから、こうする」、「私は仏教とだから、こう考える」と、自分の本来の姿・思考が止まっては、意味がありません。本来、絶対他者に触れると言う事は、何者にもとらわれない自分に戻る事、自由になる事なんです。
 政治の世界でも、「私は自民党だからこうする」でも共産党に変わったら、今度は反対の事をする。では自分が政党を離れたらどうするのか、自分の意思がどこにあるのか、いまいち不明です。宗教も同じです、自分の立つ位置を確認する事・自分は何なのか?でもあると思うんです。
 公務員としてではなく、会社の役としてではなく、日本人としてではなく、おばさんとしてではなく、老人としてではなく、中学生としてではなく、親としてではなく、障害者としてでなく、美人やそうでない人してでなく、1流大学出身として出なく、無職としてでなく、代々先祖からの家名とー、軍人とー、妻とー、犯罪者と-、子供と-、-、。

 それをとったら自分に何が残るのか・・?。、自分を規定する枠の中で考えるのでは無い自分を見つける事なんです。まったく別の世界から見れば、上記の事はまったく関係無いのです。 

 まず自分と”信じられたもの・感じられたもの”があって、それから、宗教団体があるのです。(これは時間的な距離感とかではなく、頭ん中にある関係です)
 そう思うのですが、これは皆さんの勝手ですよ。信仰については、。私の感じたまま書きました。
そういうものではないかな~~と、思った、思う、それで良いのだとおもいます。

 と言う事で、ぐだぐだと書いてしまいました。最後にSさん<自分~絶対他者>までの関係を、体験から書いてもらいました。と言う事で<第2章 ー 人間関係で世界を見る >を終わりにしたいと思います。長文、読んでくれてありがとうございました。ああ!疲れた ! さ~~て、何人読んでくれたやら、っと!^^!


       他人として愛される事や、愛する事
 
 依然こんな事がありました。僕が癌になって病院から一時帰ってきた時です、妻に「病気を代わってくれる~?」と、聞いたら「代わってあげない」と、言いました。また「僕が死んだら、葬式はしないでほしい」と言ったら、「そんなこと、死んだ人には関係ない、私の好きにする」と言いました。「僕の葬式なのに・、・・ん・・・?」。
 こんな関係をある人達は、愛情が少ない関係・身勝手な考えと思うでしょうね。でも、それは(代わる事は)出来ない、真実なんです。病気は代われない、死んだら自分は、自分の葬式にも出られないんです。
 たとえ夫婦でも(親子でも)、何年一緒に生活しても、見えている世界はまったく違うのです。感覚も、死ぬ時も、まったく違う世界に住んでいるのです。突き詰めれば他人同士の関係なのです。
 生きたり死んだりするのは<私達>の中ではくくれないんです。<私が生きて、私が死んで行く>のです。他人とは「どうでもいい世界」、と言う事になります。
 しかし、そして、結局、自分しかいない世界で、私(私達)以外のものを愛せるか?、どう愛するか?。そのように理解して、巣立っていった子供や夫や妻、友人を『他人として愛する事ができるか?』、と言う事なんですね。
 他人を愛せるかと言う事は、遠い国の人や敵を愛せるかと言う事ではなく、私達・身近な人間と思っている世界の中にあるんです。と言うよりそこから始まるのかもしれません。
 
 他人として愛される事や、愛する事が感動するんです。感動したんです!それが言いたかったんです。別の言い方だと、神様や、仏様の慈愛・慈悲の表れ、かもしれませんね。


            僕の願いを聞いてくれない神様。
 
 私は神や仏の自愛・慈悲を感じる事は時々あるんです。でも頭では納得できませんでした。〔普通は逆だと思うんですけど、やっぱり私はヒネてますね。(普通はお寺や教会に行ったり話を聞いて理解して、感じると思うんですが)〕
 なぜなら、仏はインドの世界で語られ、キリストはパレスチナの世界で語られたものであり、どう考えても日本人の私が含まれる世界とは納得できなかったからです。
 私は、私の愛情・愛の世界は<私達>の世界にしかないと思っていたんです。そして、もし神の愛があったとしても<私・私達に>のみ働くと思っていたんですね(信じてる人達とか、何かの集団=国家とか民族・優しい人達とか)。 でもある時、違っている事に気づいたんです。
 つまり愛や慈悲は、神や仏にとっては関係ない、人間や命に対して、向けられているものだったんです。言ってみれば、神・仏にとって人間とは関係ない存在。(私達の世界を超えた存在・異次元・理解を超えたもの・人間の仲間では無いもの)。そして、その愛や慈悲は、<私や私達>だけにでは無い者に対しても同じように注がれると思ったのです。(すべての命に対して)

 つまり、インドやパレスチナに住んでいようがいまいが、性格が悪かろうが、仏やイエスにとっては関係が無いいうことです。
 聖書・聖典はその時の人間が神・仏について書かれたもので、時代によって同じものでも見え方が違うということです。たまたま、インドやパレスチナだったんです。そして、それぞれの宗教・宗派が正しいと主張しても、それは勝手な解釈で、その事は神・仏とは直接係わりが無い事だったんです(今まで学校で学んだ宗教の知識は、本質とは直接は係わりがないものなんです)。
 つまり、元々神・仏が存在するのならば、イエスやブッダが生まれるズーット以前から、神・仏は存在していたのですから。

 もしイエス・キリストが今の時代に復活して、この現実を知り・宗教の争いを知ったらなんと言うのでしょうか?。彼の死後、人々は勝手にキリスト教を作るは、聖書を作るは、勝手にイメージを膨らませたり、削ったりしているわけですから。彼の生きている時代はキリスト教は無く、彼の信者が作ったのです。彼は自身をユダヤ教徒と思っていたんです。もっとも、死んで3日経っただけで、復活した彼を誰も信じなかったんですから、イエス自身は驚きはしないと思いますが。
 仏教も似たようなもの、ブッダ(ゴーダマシッタアルタ)自身は仏教など作った事を知ら無いと思います。
 依然、僕は宗教者がよく言う<私達の神>と言う言葉を聞き、勘違いしていました。神や仏は自分達(宗派の)の所有物のように思っていたのです。ところが、所有しているのではなく”彼らから所有(?)されている・つつまれている”と言う意味だったんです。(服従する関係では無いんですが。)

 

 本当の神様は人間の都合のいいように、願いを聞いてくれません


 だから信じても意味が無い、と思ってたし、都合よく効いてくれるものなら信じたでしょうね。しかし、もし思うようになったら、自身の問題に気づく事が無いからです。
 でも、思い返したのはそう理解してからではありません。癌になった事・死ぬと思った事で世界の見方が変わりました。そして、他人の慈悲に触れました。そして、ある時の出来事がだんだんと自分に理解できる気がしてきたからです。 
 その事は人に信じてもらうとかもらわないとか言う事では無いので、あまり言いませんでした。

 ――、 ある時、タイの知人の家で目をつぶって、人の話を何気なく聞いていると、眼をつぶっているにもかかわらず、しっかりとあるものが見えました。その動きははっきりと意思がありました。今まで知らない別の世界から、照らされました、見られました、すべて見透かされました。まったく別の世界から、そう確信しました。
ですけど、その意味・メッセージの深い意味は分りませんでした。しかし、その1年後今度はカンボジアのホテルで起きました。

 最悪の環境、最悪の部屋、シャワーも真っ赤な水、耐えられない暑さの夜、眠れないで居ると、
突然まぶたの内側に映像が移りました。今回ははっきりとその意思が伝わってきました。
 感動でベットがぬれるぐらい涙が出ました。そして立ち上がってバスルームに行き、茶色の水で顔を何度も洗いました。あとにも先にもこんなに涙が出た事はありませんでした。
 自分は幸せな生活をしてきたつもりでした。しかし、この感覚はまったく知らない、幸せの世界でした。ある意味で僕は絶望していたのです、初めて気づかされました。
 そのメッセージはこうでした、「安心して生きなさい。あなたの命は数千億の命の繋(つな)がりの中にいるのです。」。 言葉ではありませんでした。この最悪の環境の中で(いつもだど苦しい夢を見る状況で)、なぜなのか?。はっきりと感じました。
 「安心して生きなさい」。そう言っているのでした。――。

                                     ( 第2章の )  終わり

comment

管理者にだけメッセージを送る

プロフィール

関本塾 岡崎市

Author:関本塾 岡崎市
愛知県の山奥生まれ、岡崎市に住んでます。そば屋を27年、足つぼマッサージ7年、三味線も弾きます。
 趣味はたくさん、山登り・音楽(作詞・作曲)・オートバイ・旅行(バックパッカー)・手作り工作・猫のミーちゃん・生物医学、などなど、
 癌になって気付きました。心と体の開放(生き生きする事)が1番大事だって!!

Google自動翻訳
カテゴリー
最近の記事
最近のコメント
FC2カウンター
最近のトラックバック
ブログ内検索
RSSフィード
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。