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ストレス うつ病 人間関係の悩み

       ストレス・うつ病 人間関係の悩み ー ②
   アダルト・チルドレンAC <依存・支配>と自立について
             ①からの続きです。 ー 前書きを読んでくださいー
  

 ②  個人と社会との関わり方について-

 会社や国家・社会に対しても、今までの日本の伝統的な、人間関係を整理しなくてはいけません。
今までは、極端な言い方をすると、日本の社会全体が、母親と赤ちゃんの関係。(母親もその母親の子供であると言う関係)ー泣けばミルクをもらえ、赤ちゃんに泣かれるとオッパイをあげざるを得ないような関係でした。つまり<依存と支配の強い関係>ですね。会社・国家とは一心同体、言わなくても分かってもらえる。
 自分は自分で、相手の求めを、聞かなくてしてあげる関係でした。国家・政治家や上司・先輩に任せて、はいはいと言っておけば、それなりに悪いようにはしないと、暗黙の了解で、それなりに組織が成り立っていました。
 その象徴が武家社会の名残、終身雇用でした。会社を辞めてもOB会に出席し、亡くなっても肩書きが幅を利かせます。社長と労働者の関係、国家と国民の関係は、あたかも親子関係のようにたとえられました。
 家に帰っても社長は社長、先輩は先輩、社会生活の個人的な存在が少なく、会社や組織に属して、人生そのもの、会社が人格になってしまうような大人になっていたような気がします。

 日本人の社会の関係が母親と子供の関係と、書きましたが本当なんです。50・60歳の大人が飲み屋によって、ママ・ママと呼んで愚痴を聞いてもらっている光景は、まさに親子関係を求めているのです。(海外ではこの様な飲食店はありません、面白いですね)
 飲み屋に行かない人も、家で妻のことをママ・お母さんと呼んでいるのは、少しダブっているんではないでしょうか。
演歌のプリンス<氷川きよし>に熱狂するおば様達の目に、かわいい自分の子供のイメージが重なってはいないでしょうか(異性や大人としてではなく)。

 ちなみに、英語では先輩・後輩と憂い言葉や兄・姉、弟、といった言葉はありません。年上だから、面倒見る、尊敬する。年下だから、おごってもらえる、従う、と言う概念が、元々無いからです。(多少はあると思いますが)
 学校の教師と生徒の関係も、先生と呼ぶことはありません。外に出れば友人のように振舞います。
 このような日本人の関係を私は、擬似親子関係と呼んでいます。擬似親子関係以外の関係は、大人と大人、それぞれが違うもの(他者)と認識されている関係、自立された関係と言うことができます。

   見方を変えましょう。

 私達という概念の範囲が違うのです。日本人は相手と接するうちに、自然と内側と外側の区別を強調します。自分たち以外の人に対し、例えばこんな言葉によります「あの人たちは・・、あいつらは・・、」など、突き放して、かなりネガティブ(否定的)に使います。
外側の世界は、自分たちの対象外であって、関わりを持ちたがりません。無関心です。
 それに対して私達・内側に対しては、仲間同士の確認・同じであることを強調します。「~~でしょう↑。とか~~だよね。~~そうよね」。互いに同じだ、と言うことに感動し、違っていることに失望します。
 未だに、大都市以外では町内に引っ越してきた人に、町内の習慣を押し付けます。生き方・政治的思想や宗教は町内の集団と同じであることを求められます。
ただし、外国人だと「あの人達は違うから・・」と、違いを認められます。その代わり、ちょっと離れて、仲間に入れてもらえなかったりします。白人や黒人だとそうですが、
フィリピン人やタイ人・中国人だと、微妙。その辺が外側と内側のボーダーラインなのでしょう。


 だからグループの内側の中で、意見が違うと、なかなか言い出せません。
違う意見を言うと、とたんに外の人間、相手とは関係ない存在になってしまいます。PTAや町内会で意見を言うことができないのも、よそ者排除の力が働くからですね。村八分やシカト・いじめの問題もこうした関係もベースにあるのだと思います。(もう一つの重要な、競争社会については後に書きます)。
 人間関係において日本人は自分と同じ仲間であるか、そうでないかが重要なのです。(イギリスでもかつていじめが深刻でしたが、それは元々、イギリスの親が育児を、自分たち親では無くエリート集団に{学校寮とか・・=映画ハリーポッーターで出てきますね}委ねようとする考えがあるからだと思います。(集団で育てると、集団に帰属・依存しやすい)

 それに対して、欧米の関係は、生まれたときから、親とは別の部屋に寝て、私は私、親とも意見が違う。人と違って当たり前、意見も違って当たり前。したがって、私達という、共通の要素が少ないのです。私達(属する社会)と言う概念が希薄なのです。だから、<世間>と言う言葉も翻訳できません。頭の中に、自然に周りに合わせる(自己規制)と言う概念が無いのです。(まったく無いというわけではありませんが)
 


     農耕民族と・遊牧・狩猟民族の違い

 おおよそ、遊牧・狩猟民族であった欧米の文化は別々の動きが大切でした。鹿やウサギを追いかける時に、同じ方角から同じように獲物を追うと、逃げられてしまいます。それぞれが別の場所で、違う動きをしないと獲物をしとめることはできません。
時には一人の方が獲物を捕まえやすい場合もあります。
そういった行動パターンが、違うことも認める文化が生まれたのかもしれません。(キリスト教との関係は後で書きます)
それに対し、農耕中心の日本(アジア)は、田植え・治山・治水事業も、一緒に行動しないとうまくいきません。自然と、共同体意識・一心同体となる圧力が働いてくるのでしょう。
 自分以外が,他者ということは、社会の中で一人だけで孤立しやすい、という事もできます。それがヨーローッパやアメリカでの問題だと思います。

 また、リーダーについての関係性も違ってきます。狩においてリーダーの役割は重大です。指導者の能力によって、獲物の量が違ってきます。
農業は自然に作用されやすく、誰がリーダーでも、大して差が無かったりします。したがって、誰がするというより、和・<うまく人間関係をまとめるか>の方が重要なのです。
しかし、集団が崩壊する時は、強いリーダーシップが求められます。戦国時代や明治維新、にそのような人物が存在したことは、ご存知のとおりです。逆に今日本に強いリーダーシップを持つ人間がいないことは、集団が崩壊する時では無いと言えるかもしれません。
 競争も農業ではそれほど意味がありません。が、狩においては、獲物の取りあいです、競争の原理が働いてきますね。

 ーー以下③に続くーー

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プロフィール

関本塾 岡崎市

Author:関本塾 岡崎市
愛知県の山奥生まれ、岡崎市に住んでます。そば屋を27年、足つぼマッサージ7年、三味線も弾きます。
 趣味はたくさん、山登り・音楽(作詞・作曲)・オートバイ・旅行(バックパッカー)・手作り工作・猫のミーちゃん・生物医学、などなど、
 癌になって気付きました。心と体の開放(生き生きする事)が1番大事だって!!

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