④ 人間関係で世界を見る その4 関本塾 うつ病 癌 足つぼ 岡崎

     人間関係で世界を見る   その4

 目に見える世界(認識できない)意外の他者

 <私>と<目に見えない世界>との関係です。僕が今回1番まとめたいと思っていた関係です。具体的な例を書きたいのですが、他者の存在という概念は範囲が大きすぎて良い例が浮かびません。当然ですね、人が考える事のできうる範囲、能力いっぱいと言う事ですから。でも思いつくままかいてみます。

 ①意外な他者(困った自分の影)


 先日韓国からのニュース、<美容整形で娘をなくし、整形を勧めた母親が自殺>。
韓国は整形美容が盛んで、男性もするんです。大変ですね。
 詳しい事は分りません、でもこの娘さんとお母さんの関係が強く出ている不幸な事件だと思いました。あくまで想像ですが。アジアの典型的な<母子一体化の関係>。
 親は子供を自分の事のように考え、子も親の考えを自分のものとし共有します。(支配と依存の一体関係ですね)。
 それには、次のような背景があると思います。
 一体化の関係は自分の基準が無いため(自立の問題・周りの視線に流されやすい)、美しくある事に強くこだわり始めると、適当に妥協する事が難しい。そして娘の死に対しても、母親の責任感も無限責任となり、死を選ばずにはいられなかった。そんな気がします。

 この事は今や日本では普通になった、過食や拒食の問題でも同じです。
自分の基準が無く、「周りの人は、私を太っていると思うだろう」と言う、自分の中に生まれた、他人が見た自分を想像してしまうので、周りの人がいくら言っても決して聞く事は無いのです。
 つまり、実際にAさんやBさんに言われたのなら、AさんやBさんが「やせているね、やせすぎ」と言えば、拒食は止まります。しかし、言ってみれば、自分の中の他者が「あんたは太っているね」と言っているのです。これでは、人がいくら言っても止まりません。
 これは、<私>をつつむ実際世界の広がりが無いと、本来他者が入る部分に<肥大した自己>のコピーが、他者の代わりをしているような状態を作るのだと思います。
つまり本当の他者ではなく自分なのです。他者をはっきり認識すれば自分の影は消えます。この<自分の中の他人>は誰でも持っています。

② もう一つ厄介な自分がいます。それは自分の死後の(未来や過去も)<自分のイメージ>

 自分が死んだ後は、<自分はこういう人間だったと思ってほしい>と、誰もが大なり小なり持っています。死を意識した時など、葬式はこうしてほしいなどと、考えると思います。意外と悩みにもなっています。会社を維持してもらいたい、田畑や財産を維持してもらいたい、とあたかも自分がまだ現世に残っているかに考えます。
 ある人にとっては、今の世界よりも死後の自分がどう社会に評価されるかが、大事だったりします。
  ところが、悪評だった人が、死後釈明会見した、などと言った話は聞いた事ありません。だから、生きている今のうちにと、じたばたしても、結果は知る事はできません。たとえ知る事出来たとしても、別の世界で喜び嘆くだけ、死後からは何もできないのです。
別の世界がまったくの暇で、何もすることがなければ気になるでしょうけど、たぶん僕なら忙しくて思い出す間もないでしょう。今の自分が、昔が懐かしくてしょうがない人は、そういうことがあるかもしれませんが、死後の世界を真剣に生きる事をお勧めします〔笑い〕。

 また、僕は前世は信じませんが、もしあってもそれは関われませんから、他人でしかありません。先祖の事も他人です。同様に、関われないんですから。どんなに執着を持とうとです。それは他人と言っても良いんではないでしょうか。
 自分が先祖や死後の人に対して出来る事も、<相手の居ない>自分の思いだけなのです。自分の死後<こうして欲しい>と願っても、<立派だったおじいさん>と孫に思い出を残そうと思っても、死後は現世とはまったく関われません。無理にしようと思っても返って逆になったりします。あるのは自分の思いのみ。

 人が考える事を、死後であろうと無かろうとコントロールは出来ないのです。
人の考えは勝手に作ったり、変える事はできません。人が思っている自分のイメージも作れません。意図的にやればやるほど分ってしまうのです。自分の死後(死んだ瞬間に)、この世界とは関われないトコに行くのです。
 死後の世界を考え悩む<私>は、自己の肥大した姿であり。他者の領域、感知不能、<私>とは関われません。
 
  <人が思っている自分のイメージ>とか、<死後の自分の姿>は他者的存在なのです。そこが分ると、現実の世界が自由で楽しくなる。自己の存在が増えると欲望も増え、苦しみやきしみも増えるということなのかもしれません。
 

③ 幽霊やお化け、占い・予言の世界

 数十年前なら、「幽霊なんていないんだよ、霊なんて無いんだよ」ということは、トイレに行く子供に向かって言う事だったんですが、今は大人にまで否定されそうです。占いも予言も信じている人が大勢いるようですね。以前、岡崎に大地震が来るという予言が広がり、わざわざ町内会の役が言いふらしているのを聞きびっくりしました。

 時代が変わると<目に見えない世界>もずいぶん変わってくるんです。この霊の世界は<文化・芸術>の世界です。ですから国や民族によって違うものとして描かれています。古い民話や言い伝えはいつの間にか消えていきます。御伽噺もたくさんありました。
昔は”火の玉”と言えば幽霊の代表格でしたが、今ではあまり聞きません。世の中明るくなって、見えないのかもしれません。もし本当にあるのなら、原子炉の中に入ってもらって、発電してもらえば、最もクリーンでリサイクル可能なエネルギーになると思うんですが・・。

 しかし今は今で、新しい民話・お化けの話が作られています。例えば、テレビから出てくるお化けの映画がありました。夏になると、テレビでは心霊特集なる企画が視聴率を稼ぎます。それは想像の世界と言うのが<お約束>だったのですが、そのまま信じたり・ひょっとしたらと思う人がいるんですね。
 恨みや霊についてもっともらしい訳がつけられますが、生きている世界の常識で理解できます。宗教的な問題もあると思いますが、課題に対し自分が決定しない、自分の決定に責任を持とうとしないと、占いに頼るのです。
 また、「私は占いは信じないけど、良い事は信じても良いじゃん」とか「自身の予言、当たらなかったらそれで良いから・・」と言いながら右往左往する人もいます。それは、信じてるのと同じ。しっかり束縛されてます。つまり自由では無いんです。

 もし占いや・予知が出来るとしたら、その占いや予知出来る人達が地球上を支配しています。つまり、例えば伊藤さんが予知できるとしたら、伊藤ファミリーは災害も災難に生き延びます。そうすると、今頃日本には伊藤さんファミリーばっかになっているんです。
 だいたい自分達の先祖が墓がどうしたこうしたぐらいで、自分達を脅したり・怖がらせたりするわけ無いでしょうに。<脅す>思っている人は自分の子孫に対して、そういうことしようと思っているのかな~~と思ったりします。
 分らない事を、分ったように語り、脅すのは騙し・詐欺です。それに騙される方も、一人でトイレに行けない子供なんです。
 自分の考えの範囲でお化けの質も変わるんです。自分で衣食住をしていれば自然と分ると思うのですが、文化の発展は分化の進む社会。一人では生きていけない社会。それが進むと他者の世界が失われ何かと迷うのかもしれません。
因みに、僕んとこに出るお化けは、<ソバのお化け>かな?、出たら食べちゃうぞ~~!。
 これからは地上はデジタル・液晶テレビの時代、お化けもくっきり・きれいに見えると思います。又、インターネット上に幽霊が出現し、霊を見ると受信料を取られるかもしれませんね。気をつけましょう。

 つまりこれは<時代の文化>です。これは外の世界では無く、人間の作ったものです。
 ですからこれに振り回される事は、誰かの意思に振り回される事、うわさですね、つまらない事なんです。テレビやゲームの世界は現実の世界では無いんです。当たり前か・・!
 出来ればもっと人間界を超越した霊を創造して欲しいものです。
 PS-生きている人間のほうがお化けより怖いです。この項目で炎上したりし て!   

http://sekimotojuku.blog43.fc2.com/blog-entry-33.html           へ    つづく

③ 人間関係 その3 世界を見る 関本塾 足つぼマッサージ sekimotojuku

 

        人間関係で世界を見る              その3

 人間関係の基本は話し合いです。会話は私達と私の区別をつけていくし、他者とのみさかえも深めます。言ってみれば、差別や偏見を深める事にもなります。しかしまた、会話は相手の理解を深め、差別や偏見を取り払えるのです。しかしコミュニケーションを拒否したり、そもそもコミュニケーションが出来ない事もあるのです。

 ここで大事になってくるのが、他者とは何か?です。

 他者とは先に述べたように、自分が理解できない世界の事です。ほぼ今の日本人は目で見える世界や見えている人間の事だけが他者だと思うかもしれませんが、それだけではないんです。一般には(何が一般なのか分りませんが)宗教を〔神や仏〕を意識しませんから、とりあえず人間界の事から入っていきましょう。

 日本人のみならず、それぞれの世界に、異なった<義理や人情・世間・常識>があります。日本人はイスラム社会やブラジルなどのラテン文化の世界、は理解しようとはあまり思っていません。それに対して白人の欧米の常識<わがまま>は簡単に許してしまいます。一方は他者、もう一方は<私達>に向かっているわけです。
 しかし、どんな人同士でも話そうとする事・話すことによって、存在を認める事ができるようになります。<理解できない間柄>だと言う事を含めて。理解しあう事だけが理解だけではないのです。また分かり合えたと思っても、よく話をすればやっぱり外国人だなと思い、区別や排除したりするわけです。
 つまり、現実はいつでも、同じものに対して私と<私達>と他者の関係が、深くなったり浅くなったり、入れ替わったりするわけです。
 夫婦でもそうです。新婚時代は「一生あなた(お前と)一緒」、しかし時が過ぎると、ある時は「あんたなんか知らない!」、となるわけです。
 しかし、そこで人間(自分)は元々一人、頭の中に他人と言う存在があれば、その違いが楽しめるようになるのです。夫婦でも親子でも国家でも同じです。


   存在を無視する関係

 最近、子供が家から出なくて、またいったん出て行って帰ってくる家庭が増えている気がします。一種の大家族です。経済的な理由とか・自立しないとか、離婚といった問題があるんですね。そこで起きている問題に触れます。
 昔ながらの嫁姑・親子の問題もありますが、そういうことがまったく起きていない関係もあるのです。良くいっている事もありますが、ここでは良くいってない場合です。
 どんな事かと言いますと、まったく口をきかない、話が無く、家族がばらばら、それぞれが何をしているのか知らない関係で、同じ家で暮らしているのです。
問題無いと言えば無いのですが、僕は先ほど書いたように、<人は理解しあおうとするもの(共有)>と言う原則を持っているので、それは何かおかしいと感じるのです。
 
 人は理解しようとする、それは情報を交換しようとする、と言う事。それを本来、いがみ合いけんかしながらも、楽しみ・心地よいと感ずると言う事です。
 子供は生まれて、お母さんや周りからいろいろ情報をもらいます。生きていくための情報ですね。人間はそのために、まず言葉を覚えるのです。その言葉が十分でないと、社会に出てから十分に回りとうまく交われないのです。当たり前と言えば、当たり前のことではありますが、どうもそこがうまくできなくて、社会に出てからトラブルになっている事が多いのではと思うのです。
 うまく自分が表現できない、相手の気持ちが理解できない。孤立してしまいます。私達の世界が狭くなって、自分の思いだけがより膨れ上がります。対話が苦痛であったりするのです。

 この事は、感情面でも表れてくる問題でもあると思います。小さい時に周りの人から「あの花きれいだね!」とか「かわいいね!かわいそうだね!」といった、気持ちのある言葉をかけられ育つと、感情的な気持ちや表現が出来やすくなると思うのです。
(そうなるとは限らないのが人間の面白さなのですが、知らない言葉はしゃべれないし、環境がとりあえずのベースになるのだと思うのです)
 実は僕は笑えなかったのです。育った家庭や社会に出てからも、思いっきり腹の底から笑うことは出来ませんでした。ですからたまに笑うとお腹が背中にくっついた感じになって、苦しくて・苦しくてのた打ち回っていました。今は普通に大笑い出来ます。
 
 この事は子供だけでなく、50過ぎの大人にも言えるのです。
僕は信暁さんと、時々山に登ります。いつもは一人で山に登るので、山で話す事も感情を表現する事もありませんでした。ところが信暁さんは、見晴らしのよいところで休む度に「いい景気だね!」とか「きれいな緑!」と感動します。いつの間にか僕は一人で山に登っている時でも、景色に感動するようになったのです。信暁さんに感謝!。

 そこで国家の関係を見てみましょう。

 人の関係性の延長が国家を作るのです。僕は国家はイデオロギー・イズムではなく、親子の関係・家族の関係によって出来上がると思っているのです。言ってみれば、家族の関係が民主的でなければ民主主義には成らない、と言う事です。
 選挙が民主主義の原則だと思っている人がいますが、条件の違い這いありますが、独裁国家でも共産主義の中国でも選挙をしています。逆に民主主義といわれている日本では、世襲の議員が大勢いて、未だに政権交代はありません(これは独裁政権と変わらないという見方も出来るのです)。
 昔このような川柳があったのを覚えています。「共産党、家に帰れば天皇制」。この家に帰った状態が、正直な関係性をあらしりて居るのです。
 大人になっても、ママ・ママと言ってる人達が多い国家は、母系性国家というわけです。まだまだいくらでも書けますが、本題からそれてるので辞めます。

 もう一つだけ家族の関係から、なぜ好戦的な国家が生まれるのか?、を考えてみたいと思います。
 それは家族のつながりを幼い時に切り離すと、より大きな集団に依存する個人が出来ると言う事です。それが民族・国家や宗教団体となり大きな集団になっていくと、関係性が薄れていきます。その結果、関係性を強めないと集団が維持できなくなると感じり、敵を作ることにより集団性を維持しようとする力が働くからです。

 ユダヤ人はホロコーストで家族を失い(彼らの歴史は家族の離散の歴史です)、精神的基盤をより大きな宗教や民族に置かざるを得ない状況でした。したがって、イスラエルは他の国家より集団を維持しようとする力が働き、敵を常に作らなければ居られないのです。
 北朝鮮も国家が、親と子供を切り離し思想教育をします。親子の関係は<指導者と子供(首領は私達のお父さん)>と言う関係の置き換えられています。
 日本も明治以後の産業革命・人口爆発で、幼い子供達が親元を離れ都市に移住して工場労働者や兵隊になりました。
 家族が子供達を育てると言う事は、自分で考え・生きていけるようにすると言う事です。そのころは、その前に大きな組織に教育され・すくい上げられ組織や国家に帰属意識を強くしたのです。
 大戦に負け、民主主義国となったわけですが、人間は変わりません、今度は企業戦士となり、高度成長の時代となったわけです。

 僕は宗教や民族・国家形態の違いによって戦争が起きるとは思っていません。
戦争は塀を高くした人間の集団が、自分達の集団維持のためにするのだと思います。
逆に言うと、強い集団意識〔帰属意識・依存〕が無ければ戦争は始めません。
 アメリカは移民の新しい国、国として維持するためには敵が必要なのです。大統領の演説は常にアメリカ人として、団結を訴えます。高い塀を作ろうとしているのです。アメリカ人という意識が国民に強まれば戦争は止まります。また強くなりすぎても戦争を始めるのですが・・。左翼も右翼も共に危なっかしく思えるのはそういう事なのです。ゆるい連合が良いのです。
 連合赤軍の事件を思い出してください。彼らはのベースに流れていたのは、思想ではなく、強い集団意識を維持しようと言う意識が起こさせたのです。
つまり、個人が家庭のような小集団の中から、自立し、大きな強い集団に帰属・依存しなければ戦争は起こせないのです。(大きな集団からは、自立は難しいからです)

 今は優良企業もリストラをする時代です。帰属意識の強い会社員は会社から離れると不安になります。自殺を考えるのではなく。今こそ自立のチャンスと考えるのは私だけなのでしょうか。

http://sekimotojuku.blog43.fc2.com/blog-entry-32.html   へ続く!!

 

② 人間関係で世界を見るーその2 関本塾 足つぼマッサージ 癌 うつ病 岡崎

       人間関係で世界を見る        ーーその2
 
    猫に学ぶ

 写真にある猫の写真は、私の趣味だから、と言うわけだけではありません。よく見ると関係性の違いを感じます。モデルはキヨちゃんとこの猫です。
 この猫たちは一緒にいても、<私達>と言う認識がありません。先日、サンガクさんが、子猫を探していると言う事で、1匹もらってもらいました。だから今は一匹居なくなりました。しかし、この猫たちは何も起きなかったかのように日向ぼっこをしています。つまり兄弟同士の猫でも、関係無いのです。
 もらっていったサンガクさんは「子猫が幸せになる」と満足し、もらわれって行った子猫は、誘拐されたと大騒ぎでした。僕は他者として見ていて面白かったのです。
猫には私達という関係が人間のようには無いんです。では、まったく無いかというとそうではないと思います。

 私達という認識は情報〔知識〕の共有と言うシステムです。元は共に繁栄するということから来ていると思います。それは、すべての生き物が持っていると思います。そうでない生き物もあると思いますが、たぶんその生物はすぐ絶滅するでしょう。
 オス・メスの区別も、遺伝子を交換する事によって情報を広く伝えていくものだと思います。 
先の記事にあるハチやアリも、餌の場所や敵や味方の情報を交換しています。それ以外の生き物、単細胞のゾウリムシまでも小核の交換という手段を使って情報をやり取りしています。珊瑚や植物もしています。人間だけではないんですね。

 では何が違うかというと、<個人の持つ情報が膨大になった事>と<情報の共有量が膨大になった事>です。情報も無く、共有も無ければ文明もできず、日本が外国を知らず、インドシナ半島に石油があるとしなければ、石油が必要とする情報が無ければ、第2時戦争は無かったでしょう。
 今、僕がしている文字を書いてる事、そしてインターネットで公開する事は、生物の基本的渇望を、そのまま表現している事なのです。

 その結果、パソコンはHDDの容量が100ギガを越え、インターネットの共有サイトを使えば無限にデータが手に入り。部屋に閉じこもっていても、生きていけるし、仮想の世界に自分を作り、仮想の社会で生きている気分を味わえるようになりました。
 まるでパソコンは人間の脳の不足分を補い、拡大を続けているのです。人間の社会は、生命のシステムそのものであり、コンピューターもまた、人間の脳そっくりなのです。 
 そして、社会の問題や、パソコンに起こっているエラーのような事が、人間の体の中・脳でも起こっているのです。面白いですね!。
その中にいくつか現代的な問題があります、3つだけ書きます。
① 脳が肥大して、脳を常に使うと、体が動かなくなってしまう。
② 私達の世界を自分だと思ってしまう事。
③ 情報を選択・コントロールできなくなる。

 ③はご想像のとうりなので書きません。まず①はのことを書きます。


 人間は、人間の活動は本来、(1)視覚・聴覚など末梢神経を通して情報を取り、(2)脳が情報を処理して、(3)行動を起こす、のです。
具体的に言いますと、(1)お腹がすいたと感じ、(2)何を食べようかと考え(3)食事を作り・食べるということです。
 ところが、テレビで料理番組を見ていると、食べたばっかりでもお腹がすき、アクション番組を見ていると、お腹がすいていても脳が無視してしまいます。
 つまり、上に書いた(1)~(3)のサークルがうまく起動しなくなり、内面から起きる病気の原因になるのです。このサークルが反対に回る事は考えられないと思うでしょうが、そういう場合もあるんです。薬物中毒など覚せい剤を使ったりすると、例えば<脳が皮膚の上に虫が這えずり回っていると感じ、窓から飛び出したりします>。
各病気の具体的なことは後日書きますが一言だけ。
 自律神経・免疫系の病気は(1)と(3)を徹底的に使う。寒い・暑い・圧力・痛みを感じる生活。体を動かす生活に変えることです。

②は、先に触れていますが別の観点から。
 先日ニュースで、小学生の作文から大学生のレポートまで、インターネットで検索し文章をコピーして、書き加えたりして提出する事が今や常識となりつつあるという報道がありました。んんん~~ん!ここまで来たか、という感想です。
 自分で考えないで周りの情報で済ます。まさに人間のすることだ!。人間的だと思ったのでした。私達の世界の情報はすなわち自分だと思ってしまうのですから。
 この場合は本人の自覚がありますけど、それを評価する側(教師・教授)には無いんですね。そもそも大学に残って、学会で認められると言う事は、過去の知識を共有し、回りの人間と共通する認識が多い事であり、自分独自の認識・感想を持つ事が少ないという事、なのです。僕のように<遺伝子は突然変異だけでなく、発生から成体までの環境への変化を継承する>、といった独自の考えでは大学に残れないのです。
と、言いながら僕の考えもコピー・ペースト、人類の考える事はそう大差無いのです。 
 考えだけでなく、感情もです。人の事を笑ってはいられません。病気の相談受けていて、薬の飲みすぎで動けなくなったりすると、自分の事のように腹を立てるのですから。

 そして、人間と他の生物との違いはもう一つあります。これはたぶんですが。それは他者の存在が在るか・無いかと言う事です。牛や豚がとさつ場で死を前にして、<神に祈る>事はまず無いと思うからです。 


ここで、人間関係の問題を二つに分けてみます。

① 日本人のストレス・悩みの多くは<私達>の世界の中の事だどと思います。
家庭の問題・会社での関係・友人関係・近所づきあい・お金の問題(この問題の多くは家族を養うとか、付き合いにお金がいる・子供の教育費とか、自分が一人で食べていく問題ではありません。家族や人ととの関係から生まれてくるものなのです)。
 この<私達>の中は、私と私の集団なので<エゴとエゴ>ぶつかるのは当然なのです。自分の考え・意見が人と違ったり・違ってきたりするのが自分なのですから。
ではどうすれば生きやすいか。
 それは私達という自分を包む壁を低く・広くするべきなのです。「あんな人は○○ではない」とか「わたしは彼らとは違うから○○・・」とか、区別して関係を絶っていくのではなく、「ああ、あんな人もいるんだな・・、」と、頭の中に違う人の存在を入れていく。

 ここで問題なのは、自分(自我)があいまいであったり、はっきりしないと壁自体を意識できません。<みんなの意見>が<自分の意見>であると、他人が気になって自分で壁を下げる(広げる)事ができないからです。だから、孤立するかもしれない、と覚悟する事が広げる事になるのです。そして広げていくと、自分がはっきりしてくるのです。
 しかし孤立はしません。外の世界は、もっと広い世界が待っているのですから。
 逆に私達という世界が強固で狭いと、みんなに合わせなくならなくて、窮屈になります。しっかり頼りあえることによって幸せを感じるかもしれません。しかし、自分はあくまでも<人とは違う事>を忘れてしまうと、トラブルになってしまうのです。
 いずれにしても、私達という世界に住んでいる事を意識し、自分との区分をはっきり意識する事が問題解決の糸口なのだと思います。

② 最近の事件で問題になった、無差別殺人・秋葉原の事件などは、先に書いた関係性の問題とは異なる問題を含んでいます。(事柄や事件の背景には常に2つの事を考える必要を感じます。1つは社会的問題、もう一つは個人の問題。ここでは社会的問題を取り上げません。個人・自分として、加害者にも被害者にもなる事を考えます。)
 それは他者と私の関係です。
 
 民主主義の時代、孤立も集合も自由です。親子関係も近所づきあいも・友人関係も職場の関係も、今までのようには束縛されません。欧米の人の中には一人で住みたいと都会を離れ、山小屋で暮らす人も結構います。日本では自分から進んで一人暮らしは、まだ珍しいですね。
 しかし、望むと望まないに関わらず、まったくの孤立してしまう事があるのです。死別や差別や偏見によるもの、いじめによる無視など、さまざまです。私達と思える関係が無い、少ない人達の事です。
 しかし、孤立と孤独とは違います。大家族で、大勢の家族に囲まれていても、孤独を感じている老人は多いのです。老人ばかりか、嫁も孤独だったり、かわいがられているはずの孫も孤独だったりします。その反対でひとりで生活していても孤独を感じない人も大勢います。

 つまり、一人だから孤独ではなく、<他者〔理解できないものの存在〕が自分の中にあるかどうか>がカギなのです。まったく寂しさを感じない人はいませんが・・、と言うよりそこが根源的な問題ですね、欲望が消えないと同じように消えはしないと思います。しかし、そこに納得できるものがあると思うのです。
 人間は知らぬ間に自己が肥大してしまい、他者を排除してしまいます。自分や私達だけの世界になってしまう、エゴの拡大ですね。その排除した分だけ、不安が増えていく気がします。つまり他者の存在と不安は反比例すると言うわけです。

  http://sekimotojuku.blog43.fc2.com/blog-entry-31.html  へ  

                                          つづく

theme : 人生のコツ, 生き方のコツ
genre : 心と身体

① 人間関係で世界を見る  第2章  その1 足つぼ 関本塾 うつ病

 人間関係で世界を見る  第2章  その1       

        「『人を愛するより、歩きなさい』、ですね!」 

 ハマコさんは言った「『人を愛するより、歩きなさい』、ですね!」 。人を愛するのは難しい、それよりも歩く事のほうがやさしい。と言う意味だそうですが、毎日歩くのは人を愛するほどに難しいという意味でもあるんですね。
 「『人を愛するより・・」この人というのは他人と言う意味だと思います。
 実は他人という存在に気がつくのは、本当に難しいんです。日ごろ私達は私達の中で暮らしているからです。
 民族主義というのがあります。日本の国や日本の文化が立派である事を主張して存在を求めていきます。一方に世界主義というのもあります。どの民族・国家も同じく尊いという世界平和を求め主張します。
 反対の主張のように双方対立していますが、実はそうでもないんです。私達という定義が違うだけだったりするからです。両方とも宇宙人からすると敵対的でもあります。
 『私達』と言うとき、家族を指しますか?友人仲間、自分の会社を指すか、国家?人それぞれ違います。場合にもよります。
 つまり自分の利害の及ぶ範囲の事を指します。では私達ではない世界、他人の世界はどうでしょう、行った事のない外国ですか?。ご近所さんでも話さない人や、嫌いな人は他人ですね。つまりどうでもいい世界なのです。

 よそ事で思い出します。北京オリンピックの時で、イギリスやフランスでチベットの自由を求めて、一般市民が抗議活動をしました。自分の中でオリンピックとチベット問題を並べて考えたわけです。つまりどっちが大事か。一方、一部の日本のアスリートや評論家は「こんな時にしてほしくない」、と。自分は純粋にスポーツを楽しみたいのだと言っていました。 つまり自分とは関係ない世界、別の世界、と言っているわけですね。

 自分の世界観、意識の広がりが、『私達』の範囲を広げていくわけです。だから日本人でもロシアに友達や家族がいて、自分の会社があれば、日本がすばらしく、1番エライとはならないのです。
 したがって今の時代は、世界平和が、地球が1番大事となるわけです。自分のはいている靴下や、服を見てください、ほとんど中国製です。会社で働いて作っているものは海外に輸出されています。そもそも、民族主義は孤立・内側に向かってのみ主張されるものかもしれません。世界と貿易をして成り立っている日本は、もはや世界に自分達が1番などとは言えません。知っていようといまいと、私達の服を作ってくれたり、食料を作ってくれる友人を世界中に持っているのです。(世界で孤立すれば別ですが) 

  また話はそれますが、


世界の歴史はこの<私達>と<私達>の戦いの歴史でもあったわけです。民族とか国家です。人種による差別や偏見もこの仲間です。黒人奴隷を使っていた世界では、「同じ人間なのに奴隷として使っていいのか」という内部の矛盾に対して、キリスト教は「彼らは人間では無い生き物」と言う判断で<私達>から排除しました。(その後謝罪しました) 
  ヒンズー教の社会では、数千にのぼるカーストで人間を区別し、そのまた、それ以外のものとして<アンタッチャブル=アンダーカースト(カースト以下)>という区別をしています。20世紀を代表する平和主義者ガンジィーも、この問題に対し「ハリジャンとして崇めよ」、と言っています。つまり名前を変えるだけ、生まれ変わっても代わらない、こじきはこじきと言っているわけです。大きな<私達>の仲間には、生まれ変わっても入れません。
 ユダヤ教も神道(氏神・地域信仰)も<私達>という規定があり、それ以外のものは時として敵になります。別の宗教、例えば仏教は<生き物・人間は>とか、<仏と自分の関係>を説いていて、<インド人はとか><どこどこの者は>とか、説かれてはいないと思います。
 新約聖書(キリスト教)の世界観も「神は私達にこう言われた・・」、と常に2人称で語られ<私達の規定>それ以外の者を閉じ込めてはいません。
 話は宗教へ入ってしまいましたが、私達の頭に中に<他者>を取り込む事が、自由になる事・ストレスを減らす事、に重用だと思っているからです。信仰〔本当の〕は他者を認識する事だと思っているからです。後に詳しく述べます。

 さて、この世界と利害関係によって結びつた私達は、他人とはいったい何になるんでしょう。 宇宙人?孤立した北朝鮮のような国家? そう、私達はこうして内と外を分けて考えます。「愛するもののため」「世界のため」「地球のため」。それは全部自分の世界ためです、自分のためを含んでいるのです、言ってみれば拡大・肥大したエゴです(もしあなたが宇宙人で無ければですが)。

 では他人を愛するとはいったいどういうことなのか?

もう1度、私達の意味を考えてみると、こういうことになります。同じ様な遺伝子を持つ仲間、同じような価値観を持ち、理解しあえる環境にある、または可能性がある仲間。これを広く考えるとすべての生き物になりますね。面白い!。他人がいなくなる。
これを狭く捉えると、私達という言葉は無くなって、『私』 だけの世界になります。
たぶん生物的には広い意味でしょう。つまり食べたり食べられる関係でも、同じタンパク質を交換し合って生きているのが生物ですから。

 人間はと言うと、自我があります。自我がなぜ生まれたのか諸説あります。私は次のように考えます。
  親の中から出た個体〔子供〕が、親から離れ、敵味方・繁殖の相手だけでない関係の中での違いを認識した時に〔群れの中での行動欲求の違いや、生と死の違い]、自我が生まれてきたと思っています。
 つまり徹底したわがままや、ほかの仲間とは違うと言う事が、自我の本質であると思うのです。したがって、私たちが、使っている『私達』の意味は、あいまいに使えば使うほど自我があいまいになっていきます。私が無くなって、私達が多くなります。つまり、「私達が・・」を連発していると、本当は自分はいったい何なのかわからなくなり。「私が・・私は・・」と、連発していると、自分だけの世界になります。
 自我が生まれ、大脳の活動が拡大してできたのが、私達という<拡大した人間関係の概念>だと思います。
  普段は<私と私達>を意識して区別してはいませんが、この行ったり着たりの間で人は暮らしていると思います。しかし、意識の中で、なかなか他人は登場しません。
 一般では、<私の世界>がエゴイズムでいけない世界、<私達の世界>と言うと博愛主義で、立派な世界と言う事になっているんです、一般的にはですが。しかしそれも内内の世界であり、外・他人から見たらどうでも良い世界なのです。
                                    以下     続く

http://sekimotojuku.blog43.fc2.com/blog-entry-30.html


足ツボ ストレス アルカリイオン水 人間関係 温泉 関本塾

     足ツボの痛みは<生きている喜びを実感させてくれる>。
 あまりの痛さに、子供の事も金銭の事も、人間関係の悩みも、とりあえずほっといて、痛みにどう対処したらいいのかうろたえる。しばらく余分な事は考えない。余分な事って何?。そして痛みが去って、自分のことがまず第一なんだと実感する。本当に自分を大切にする事を、考えさせてくれるのです。今の自分に納得し、今を楽しむこと。

先回の俳句の続きです。

泥棒にあったらとたんに 死刑賛成、核武装に核爆発
歌を詠み ショックを隠す やせ我慢
泥棒を許さんと 三味線 撥を強く打ち
泥棒を 捕まえると ミーコ膝に乗せ
 
ーーー泥棒は反対サンタだったのか?

正直な温泉にて、 ーアルカリイオン水 の嘘ー

 先日本宮山に登った。ウーパーの病気を治すぞと誘ったけどパスされた。
帰り本宮の湯・温泉に入った。
 どの湯が源泉なのか職員に聞いた。「水曜日に湯を変えている、薄めているけど全部が温泉です。カリウムとかナトリウムとかヒリョウとか入っているやつです」。
 ヒリョウ(肥料)????、、ん・・・!!。なんか効きそう!・体によさそうな気がする。

 そういえばアルカリ水と言うのがあるけど、飲み水として売っている。しかしドブの水や、下水(ウンチやおしっこが入ってるやつ)・肥料や落ち葉が腐敗した水もアルカリ水なんだけど・・。飲んで大丈夫かどうか・・。アルカリ水と言うも何が入っているかが問題。水は絶対に中性なんです。オンモニアは強烈なアルカリ物質。つまりアンモニアが入っていれば、アルカリ水と言う事になる。有毒。
 アルカリ金属は リチウム・ナトリウム・カリウム・ルビジウム・セシウム・Frだけ、。
 因みに酸性とは、水に溶けてオキソニウムイオンを生じる物質。
HCL+H2O=0H3(+)+CL(-)  となり0H3(+)がオキソニウム。

 イオン水と言うのもある、水はH2O 分子結合。イオン化はしない、水のイオン水は無い。イオン化するのはイオン結合したものだけなのです。食塩はNA+とCL-にイオン化する。マイナスだけ存在しない。だからプラス・イオンも同時に存在する。あと結合には、鉄などは金属結合がある。元素の結合はこの3種類だけ。だからこの、イオン水と言うのも、イオン結合する何らかの分子が入っている事なの。いったい何が入っているかが問題。普通純粋真水は存在しないから、地殻に含まれる珪素やナトリウム・鉄が入っている。
 ところがそのミネラルが、水の中にはほんとにわずかしかないのです。
 だから、どこどこの水がおいしいと言うのは分りますが、その水が体によくて、癌・病気が治るとか言うのは疑問。食べ物から取ったほうがよっぽど効率が良い。
 ただし、日本人の食事は世界で最もバランスが取れているから、サプリメントを取る必要はないと思う。サプリメントは栄養補助食品と言うんですが。
 因みに、家の近くの貸し工場で細かな石を台車に載せて干していたので聞いた。「このジャリ何にするの?」。この石(普通の石)の中に水道水を通してミネラルウォーターを作るのだそうです。タダの水が数百円になる魔法の石でした。

 前回は僕が作った言葉「擬似親子関係」について書きました。(mimesisi parenthood) ここではもう少し<自分・私と他者・他人>について書きます。

プロフィール

関本塾 岡崎市

Author:関本塾 岡崎市
愛知県の山奥生まれ、岡崎市に住んでます。そば屋を27年、足つぼマッサージ7年、三味線も弾きます。
 趣味はたくさん、山登り・音楽(作詞・作曲)・オートバイ・旅行(バックパッカー)・手作り工作・猫のミーちゃん・生物医学、などなど、
 癌になって気付きました。心と体の開放(生き生きする事)が1番大事だって!!

Google自動翻訳
カテゴリー
最近の記事
最近のコメント
FC2カウンター
最近のトラックバック
ブログ内検索
RSSフィード
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード