ネパール、ヒマラヤ、アンナプルナ、行った!





民族自決は正しいか?


38 民族自決は正しいか?
 民族自決の原則。これは第2次世界大戦後の欧米列強によるアジア・アフリカなどの植民地からの、独立運動でさかんに使われました。以前は正しいと思っていました。自分達が独立し、自分達の国家を作る。筋が通っている。数千年の悲願であったりもする。けど、どうも怪しくなった。その自分達民族とは、元々はあいまいなもので、自分達の都合の良いように解釈するのです。世界一強固な民族団体である、あのユダヤ民族でさえ、何がユダヤ人なのかで未だにもめています。決められないのです。

 少数の民族が多数の民族により弾圧・抑圧されていたので独立する、しかし独立しても、自分達の中に、又少数民族を生み出してしまう。そして又独立しても、その中から又少数民族を作ってしまう。旧ソ連であちこちで起きている民族紛争がそうです。紛争が絶えない。

 自決は民族の中身により正しい場合もあります。しかし、こうした問題は、民族差別を無くす事から取り組むべきで、単に独立すれば良いという問題でもないのです。平等な国家社会を目指すべきなのです。地域的な民族問題もあります。チベット・スコットランドだけでなく、沖縄やカタルーニャ・タミルなど歴史がある問題もありますが、地域自決もそうです。いずれにしろ根本的には、民族差別ではなく、人種差別と捕らえるべきなのです。そして<大きなゆるい社会>を作るべきなのです。民族で以って訴える、強い団結は流血を呼ぶのです。フツ族もツチ族も、ウクライナも日本と朝鮮・中国も、どう見ても違いが無い(欧米から見れば特に!遺伝子も)、事柄にこだわる背景を知るべきなのです。

 今のウクライナ内戦は元々ウクライナ民族主義が起こした抗議活動に対するものでした。しかし、結局は民族主義の願いである民族強化が出来ずに、ロシア人の多い国土を分割され失いました。民族主義者の彼らにとっては、非常に屈辱的な結果となったのです。民族主義が強まれば強まるほど分裂するといういい例だと思うのですが・・・。。
 ですから、民族自決の原則は、次の分裂までの間が平和と言う事になりますね。民族は<民族とは個人の思い>にするべきなのです。

 今後、人類が数千年生きられるかどうかは、この辺の選択にかかっているんです。選択は2つです。地球規模の大きくてゆるい連合体のような社会を作って行くか、又は、文明をセーブして地域・大家族のような小さなグループ単位の社会、自給自足の小さな強固な社会・小国家を作って行くか、のどちらかです。どちらの社会でも巨大な兵器は無くなります。地球規模の社会では大きな武器を持つ必要が無く。部族のような小さな国家は巨大な武器は持てないからです。

 マスコミやアカデミックな学問の中にこういった発想や、提言がない事を残念に思います。今や日本人の28人に一人が外国の人と結婚しています、元々中国・朝鮮・アイヌ・クマソの混血です。海外においてはもっと多い。南アメリカでは90パーセントが混血です。血縁に基づいたピュアな民族など存在しないのです。だから私は大きな声で言いたい<民族で語るな、個人で語れ! 民族なんて言うなああーーーーあ!、固有な文化を持つ人達と言うんだああーーーーあ!>。
 自ら民族と言う<村社会>から出ようとしなければ、民主主義は来ないのです。

果たして心が問題なのだろうか?

37 アメリカの集団的トラウマ。裁判にカウンセラー、アメリカは村なのか?
 アメリカは大きな村社会です。どうしても一つの価値観に統一したいんですね。その一つかアメリカン・ドリームです。アメリカ社会は何でも自分・個人の力で勝つのが好きな文化なのです。サバイバル映画や一人で悪と戦う映画がヒットします。最近アメリカで、日本のドラエモンがテレビ放映される事になったそうですが、困ったらドラエモンに頼るのびた君のキャラクターが気になるそうで、一部内容を変えるそうです。<個人は勝たなければいけない>の世界です。個人の努力・頑張りが、重要であって、セレブに成るのが、アメリカン・ドリームです。政府の援助は後から・・、自助努力と周りの助けが原則です。その理由は簡単です、ヨーロッパから一発当てようとしてやってきた人達(アメリカン・ドリーム)が、インデアンを殺害し作った国がアメリカだからです。それが集団としての一つの、アイデンティティーの基と成っているんです。別な言い方だと集団的トラウマなのです。

 今使っているパソコンもベースはアメリカ、アップルもfacebookもgoogleもアメリカ。映画・音楽もハリウッド。私達は知らないうちに、使っているうちにアメリカ社会のメンタリティーを同化しているのです。(何が変わってきたのか?考えてください)
 ですからアメリカは北欧のように社会福祉が進まなくて、底辺を支えているのは教会・NGOが中心の市民によって成されています。(チョット極端な言い方ですが・・、そういう傾向が強いということでご理解を!)。日本はと言うと、アメリカ的な家族責任型ですね、、。

 私が病気の相談を受けていて、一番気になる事は。カウンセラーをしている人達が、どのように自分の立場を理解しているか?という事です。カウンセラーになるのには色々な資格がありますね、国家資格は無いのですが臨床心理士というのが最も認められた資格で、あと民間にいくつもあります。医師やカウンセラー自身のメンタリティーが、気になるという事です。

 人(個人)は集団の中によって感情・感覚が育てられ、自己(個人)が出来ていくわけです。そうした心を分析した学問が心理学です。心理学の草分けが今だに権威である、フロイトとユングです。彼らは個人の心理に着目しました。<脳と心の関連>を無意識と意識下の分析を行うことで、個人の病理を解決しようとしたのです。ユングは個人と人類共通する問題に着目しました。つまり病気は個人の下(基で起きる)わけですから、個人を観察していくわけです。だから彼らは、人を集団としては捕らえてなくて、集団を相手にする場合は、集団心理とか集団パニックなどと言うように、個人と集団とでは別物のように捕らえているわけです。が、私はその関係<個人と集団との関係>こそが、人としての心理だと思っているわけです。私は人を、一人の個人をジーと見つめて行くと、人間ではなくなるような気がするのです(只の生物です)。

 心を扱う資格を取るのには心理学を学ぶわけですが、その中心はアメリカやヨーロッパの学問となったものを中心に学ぶわけです。その出来上がった学問のベースになったものを、どこから発想するかと言うと、アメリカ社会やヨーロッパ社会では当たり前の条件下にいることを大前提にしているわけです。それを人間本来のものは、と、突き詰めていっているわけですね。しかし、そもそもアジアとヨーロッパでは家族の関係が違います。人間のメンタリーティーは多様で、自分達では気づかない精神の構造下に問題の本質が眠っているとしたら、本来の問題が見えてきません。ストレスの原因とかです。

 赤ちゃんの時から、一人で寝かせるヨーロッパと、いつまでも川の字になって、同じ布団で寝るような事が愛情と思っている社会とでは、心の成り立ちが違うのです。当たり前ですが、住んでいる世界が違えば感覚も違ってくるのです。(この辺を説明するために今まで書いてきたのですが・・。世界50各国自分の足で歩いてきた経験や、世界に友人を持った事で、それを実感します)

 そんな中で、日本人と大きくかけ離れた感覚を紹介します。実は、日本人にはプライバシーがあまり無いのです。エッ!どういう事?。日本人はプライバシーと言うと、主に見られたくない事・知られたくない事を意味するようですね。例えば鞄の中を見られたり、裸を見られたり、私生活を見られる事に対して、<プライバシーを侵害された>と感じます。
 しかし本来の意味はだいぶ違います。英語でのプライバシーの意味は<私的自由>の事を言います(個人の秘密は次に意味します)。the state or condition of being free from being observed or disturbed by other people. 直訳では〔状態や観測や他の人に邪魔されることから自由であることの条件〕、んんん!なかなか深いような!。見られたり知られる事では直接ではなく、行動や考えを集団に因って制限され事を嫌がる事です。因みに、フランスのギャルソンは私の前でも、下着になって着替えをしてました。でも、見てないですよ・・!。

 つまり、プライバシーとは自分だけの行動の事です。例えますと、日本人は旅行で集団で行動するのが一般的で、それに対して特に何も不自由を感じません。しかし、フランス人はとても苦痛で、集団では絶対に旅行しません。理解できないそうです。詳しく書かないと分からないかもしれませんが、そもそも地域・神社・檀家や婦人会・学区などの集団が無いのです。今では絶滅したのでかえって現代では、結構面白がっているかもしれませんが・・。プライバシーを侵されるから(自由が制限されるから)団体では旅行しない、という事なのです。中学や高校の制服も然りです。
 日本では町内会やPTA・神社祭り等に参加しないと、「どうしてですか?」聞かれますが、それが正にプライバシーの侵害なのです。日本とヨーロッパでは私的自由感がまったく違うという事です。ですから、私的自由をあまり重んじない日本人は、このプライバシーと言う感覚は少ないのです。

 このような文化の違いは根深いんですね。日本の芥川龍之介のような私小説は、非常に日本的なのです。ですから海外では理解されないようです。村上春樹のような、個人的な経験ではなく、人としての普遍的な(?)想像の世界を描くものが主流で、自分を書く事は自史になってしまうのです。
 話は飛んでしまいましたが、日米欧の違いや自分の心理的ベースを理解しないで臨床の現場でカウンセラーをしても難しいのでは?という事なのです。こうした問題はアメリカはアメリカなりにあって、ヨーロッパはヨーロッパなりにあるのです。アメリカは何故戦争をやめられないのか?何故多くの人がカウンセラーを受けているのか?。今の所、英文にするつもりはないので省きますが、アメリカもまた村社会(頭の中です)が残っているし、英雄待望の集団依存社会なのです。まあ、程度の問題とそれによって起きる問題の大きさが、世界を動かして行くわけですが・・。

アメリカンインディアンの長老の言葉

36 アメリカンインディアンの長老の言葉を紹介しましょう。
 <小さな幸せ>なんて無いんです。小さいとか大きいは、何かと比べているからです。幸せは誰かと比べたりするものでは在りません。それは不思議な何かに包まれている事なのです。次に書くものは、私が以前、ブログ関本塾で紹介したものです。信仰と回心・回向について述べてます。語っている本人はそう思っているかどうか知りませんけど・・。仏教もキリスト教もアメリカン・インディアンの教えも、深い所では同じなのです。何度読んでも感動します。
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 幸せになるのには、幸せの意味を知らなくてはならない。理解しなくてはならない。幸せとはそれだけで一つの世界なのだ。それは一人ひとりに潜む世界。
心で生まれる。言葉では説明できない。それが内側で生まれる以上、外側にあるものでは決して幸せになれない、幸せを外側から呼び込もうとするのは、罠にはまるのと同じ事だ。

 幸せとは心のあり方。自分で完全にコントロールできるもの。物事が順調でもそうでなくても関係ない。

 幸せの世界は、それを欲するすべての人に開かれている。願い心と知恵があればいいのだ。それさえあれば内側から光が‐幸せの光が生まれてくるのです。
 そして、いつまでも人生の一部でありつづけるのだ。幸せは一生消えない感覚なのだ。

 幸せは自分に満足できる感情。

 人は幸せでなくても生きられます。けれど幸せは人生のあらゆる面を上向きにしてくれます。火を使えば、いろいろな事ができるように、幸せなら、いろいろな事ができます。

 火を燃やし続けるには、薪をくべなくてはなりません。さもなくば火は消えてしまいます。同じように、幸せになるコツをつかみ、努力しなければ、常に幸せでいる事はできません。ただし、たえず薪をくべる必要がないように、幸せになるためにも、24時間中努力する必要性はありません。忘れないよう、火が細くなったときだけ、薪をくべればいいのです。

 火を絶やさぬよう努力をしていれば、消えません。雨が降れば覆いをかけ、風が吹けば風除けで守ればいいのです。現に先祖たちは火を大切に扱って、何年間も燃やし続けてきました。それを消せるものなどありません。夏も冬も、炎を片時も絶やさぬことが部族の大切な勤めだったのです。

 火は燃えているか、燃えていないかのどちらかです。ほとんど燃えている、という事はありません。人は火を燃やしているか、燃やしていないかのどちらかなのです。
幸せもそれと同じです。人は幸せか、幸せでないかのどちらかなのです。部分的には幸せになれません。そんな事は不可能です。

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 以上です。以下続きますが、今回はこれまでです。なんとなく美しさみたいなものが伝わりますね。続きを読みたい人は、yahooブログの関本塾を検索してください。
 私はよく山に出かけますが、自然の中で、自分だけの力で生きている野生動物に突然出会うと、何か神々しい物を感じます。感動です。人間もそうなんですね。文明を離れ、自然の中で自分の力だけで生きている人に出会うと、特別なエネルーギーを感じます。

同級会の悲劇、真実に唖然!

 同級会の悲劇、真実に唖然!
夏にはよく同窓会や同級会が開かれる。僕の所にも案内が来た。同窓会での話はだいたい、子供や自分の社会性の自慢話。そな自慢話をしに来ませんか?と案内が来たのです。でも仕事なのでいけない。基本的にイベントは多数派の休みに向けて作られる。日曜日が休みでない人は、何事にも徹底的に除外される。まあそれはそれとして、何事にも勉強になる、何度か参加してみた。

 僕の期待としては、あの頃の同級生がどのように変わったのか?が知りたかった。ある人はきれいになったり、そうでなくなったり、先生と呼ばれる人になったり、社長・重役になったり、そうでなかったり。それは、面白そうだ、と思ったのでした。
所が見事に期待は裏切られました。元々、クラスでは親しく話す友人がいなかった僕は、全く誰とも話をすることがありませんでした。当時、仲良くしていた連中は輪を作り楽しそうに話してました、が、僕はその中に入ってはいけませんでした。おーお前来たのか!そんな程度で、近況も、現在の心境も聞けませんでした。女性の人達も、当時仲の良かった人と夢中に話しているだけで、ほかの出席者には目もくれません。では、ポツンといる人と話そうと、見回すと誰やらわからず、話すきっかけも、相手の反応もありません。そこで思い出しました。当時もそんな状態、そんな関係で学生時代を過ごしてきたのだ、と。何も変わってない。

 確かに大人になり、親になり、社会的な立場は変わりました。だけど、心境は変わらない、そう簡単には変わらないのだと気が付きました。小学生のころやさしかった奴は、今でもやさしい。当時、真面目だった子は今でも真面目。いじめや嫌がらせをしていた奴は今でも、性格が悪い。おとなしかった子は今でもおとなしい。僕は変人のままに映ってるらしい。同窓会で「やっぱOOちゃん変わってないね!」お互いに言い合っている。つまり人は大人になっても成長しない!自分を含めて、人は全然成長しない!。たとえどんなに美人になってもバカはバカ!社長や大臣になってもバカはバカのまま。同窓会に行った時よく観察して下さい。これは真実じゃん!

 逆に、今ある自分の姿で過去が分かる。今この文を読んでいる人は小学生からインテリなの。あなたはインテリゲンチャ。この文を読んでも、腹が満たされるわけでも成功するわけでもない。知的好奇心。そういう人は小学校の通知表も4か5.もしあなたに子供がいたとしても塾に行かなくても勉強ができる。ある意味、個人の努力ではどうしようもない。
よ~~く考えてみれば、社会の問題が変わらない、いじめが無くならないのは、大人になっても、何も変わっていないからじゃん!あああっ!絶望。この時初めて、僕は神を呪った。


人間捨てたものではない!

人間捨てたものではない。

たとえゲームのような実際に血を見ない戦争(人を殺す現場にいない殺人)でも、人は苦しむ。アメリカとイスラエルは無人攻撃機・ドローンによる攻撃で人を殺している。どうも、そのパイロット達でも精神が病むらしい。アメリカのドローンのパイロットは約2百人で、昨年までに50人が辞めたそうだ。元々、生物は同じもの同士殺しあう様にセットはされていない。僕の説の証明でもある。それで、米軍はパイロット不足に対処するために、一人で操縦できるように改良するそうだ。・・こういう事考えてる人も計画を実行している人も、実は自身が病んでる事にい気がつかない。

 ひょっとしたら、ゲームの殺人ゲームでも痛んでるかも!

2015年敗戦報道はこう読む

2015年、マリオの敗戦特集まとめ。日本人は日本が他国に占領されると<女は凌辱され、男は強制労働・殺されると未だに思っている。降伏は恥・鬼畜OO?
僕はいつも、戦争は集団に依存している自己が問題なのだと言ってきました。今年初めて新聞にそのような記事が一つ載ってました。ようやく気が付く人が出てきました(ドイツの学者で集団に陶酔すると言う言い方でしたが)。うれしい限りですが、相変わらずほとんどの記事は、戦争は悲惨・悲劇・平和が1番、心が傷つく!でした。

 <自分達が戦争はしない、と言えば戦争は起きないのか?><軍備の代わりに平和外交をすれば戦争は起きないのか?>。今の首相は<この法律で戦争は起きない>と言っているけど、起きない保証はどこにあるのか?。詰めが甘い!どんなに軍備をしても、世界最強になっても戦争は起きるかもしれない(アメリカを見てよ)。じゃー、どうするのか。

 永世中立国スイスの様になる?それも良い。出来なかったら?、タイやフィンランドなど北欧のように、攻めて来た軍と、同盟か降伏する。それでも良い。問題は国家として徹底的に戦うという姿勢・負けるとイヤと言う姿勢が、悲惨な結果を招く。国民に戦わせるという姿勢なのだ。何のため?国体・利権支配層の維持のためなのだ。貧乏でアパート暮らし、その日暮らしの人にとって、国体など関係ない。どこかの国が自分の住む町を占領しても、今より良い生活ではないとしても、殺し殺されるよりはましだ。ほどほど中流のあなたはどうします?考えすぎ?

 問題は2つ。一つは国家として。<国家として戦争が始まったらどうやって終わらせるのか>の想定がない。日本の過去は自分から敗戦の処理や、勝ち戦の処理の能力がなかった。これはどこの国家も無いからアフガンやイラクで戦争が終わらない、と、は思うのだけど。戦争を始めるなら、事前に指導者は様々な想定・結末を想定しなければいけない、あたり前だけど。しかし、残念ながら誰も考えない、全く無の状態で戦争を想定して法案を作っている。そう思えてならない。朝鮮戦争・満州事変・太平洋戦争の時代と指導者の何が変わったのか?どう責任を取ったんか?変わってない、昔のママです。今の首相はその時代の指導者の孫。2世3世の議員が国政を動かしている。今の自民党や民主党の多数の議員は、この法律について、ほとんど何も言わない。知識もないし、興味もない?、選挙に勝つことだけ考えているようだ・・。それでも国会議員にはなれるのです。しかし、政治家が何を言おうと、兵士がNO!兵士になる事にNO!と言えば戦争は起きないのです。戦争の準備をするなら、終える準備もしなければいけない。

 問題2つ目。個人としてどうするか?政治家は自分たちが選んだ人達です。バカであろうが賢くあろうが、自分達の責任。結果的に良くも悪くも、自分が国家に所属している限りその集団に引きずられるのです。だけど、日本人のメンタリティーは国家に引きずられすぎなのです。国家が戦争を始めたら、自分はどうするのか考えるべきなのです。戦後よく聞かれた<あの時は仕方なかった>と言う言葉は、自分のなさ、自己のなさの象徴的な言葉です。仕方なかったとしても、それはそれ、加害者としての責任を感じるべきなのです。仕方なかった、は、大人として言ってはいけない言葉なのです。因みに、特攻隊を見送った人の言葉で、仕方がなかった、と言った人は今のところ知りません。出兵に日の丸の旗を振った人はどうでしょうか?。傍観者と当事者の違い。傍観者だと思っていたから、仕方がないと言ったのだと思う。傍観者は常に加害者側だと思う。だから現場を知る、悲惨さを知る事も確かに大事なのです。

 しかし、その先がもっと大事なのです。集団に依存する集団は怖い!日本人は変わったのか?かつて戦争に反対する人を<非国民・売国奴>と言って、徹底的に攻撃したように、安倍政権に反対する人は、自分達の平和と正義でもって相手を徹底的に誹謗中傷しないのか?
さて!自分はどうするのか?みんなに聞く?そこが問題なのです。マリオ

なんでやねん!一昨日のハゲ感動話だめなの?そこでもう1話



 youtubeで評判になっていた、車内での出産動画。僕は動画での出来事ではなく、若い父親の一言に感動した。予期せぬ陣痛に急いで病院に駆けつける夫婦。カメラは助手席に向かって置かれていた。映像は3分ほどの間に生まれてしまう様子を映していた。オギャーと産声をあげる男の子、母親は「どうしよう・どうしよう」とうろたえている様子。すると運手したままの父親が言った。「どうしようって?愛してあげればいいんだよ!」声が嬉しそうにはずんでいた。

 色んな意味でこうありたい、今の僕は考えすぎだ。出産や祝い事だけでなく、身内が亡くなった時や失敗した時。自分が病気になった時、仲の良い友達とけんかした時。何時でも、何時でも、その先や周りの事を考えるのではなく、今の喜びや悲しみをじっくりと感じ、表現すればいいんだ、と!

感動した話し-2

 感動した話!2
 知人のAさんはある朝感動して、目が覚めたそうだ。自分の頭に天使が舞い降りたと!。それはハゲの所に白い毛が生えたことなんですが・・。それはもう40年も前の記憶の夢だったそうだ・・。

 彼は幼稚園からズゥーっと、何人かに嫌がらせを受けていた。帽子を取られたり鞄を放られたり、いやな思いをして学校に通っていたそうだ。しかしその事ではなく、クラスの中にもっといじめられている女子がいて、40年後ある事に突然気が付いた。

 B子さんは貧しくてあまり勉強もできず、可愛くもなく、汚い臭いと言われていた。ほとんどの男子から嫌われ、二人組の席は、机は寄せてもらえず、そばに通るだけで「くるな!OO!」と徹底的に嫌われていた。クラスの班学習でも、来るなと言われ仲間に入れてもらえなかった。彼はそれを見て自分の班に入れ、フォークダンスも誰も手をつながない中、ちょっとだけ手をつないだ。いつも、目立たぬようにかばった。

 彼は体も小さく体力も無かったので、自分がいじめのターゲットになりはしないかと不安で仕方がなかったのですが、仕方がない、思い切るしかなかった。英雄になるつもりでも、お利口さんになるつもりもない、仕方なくそうしたのだそうだった。

 40年後の朝、彼はそのB子さんに、「何かをしたと思っていたこと」は間違いで、実は彼がB子さんに<自分の人生を切り開く勇気をもらった>と気が付いたのでした。彼にとってB子さんは、言ってみれば天使。それに気づきを与えてくれた。ハゲの所に生えてきた白いものは天使の羽。感動して目が覚めたのでした。B子さんはどんなにいじめられても、いつもニコニコ笑ってました。彼はバカなのかな?と思っていたそうですが、今でははっきりと違う!と思うのでした。


信仰と宗教の違い③

35 宗教団体はいつでもオープンで行こう?。
 宗教は<同じ信仰を持つ者の助け合いの集まり>です。地域や血縁ではありません(氏神・ユダヤ教など地域的・人種的な宗教を除いて言います)。ここで人種・国家や民族差別を乗り越える事ができます。宗教は<一つだけの・こだわりの集団>から出て、広く大きな集団と接触する窓口なのです。出家や洗礼は、ただの儀式ではなく、地縁血縁を絶ち自分の生き方を見つけ、新たな居場所を見つける事です。ただし、出家・洗礼をするかどうかは、あくまで本人の問題なのです。
 言い換えると、関係を広げ人生やトラブルの相談窓口を持つ、今までとは違った友達・恋人を作る窓口なのです。キリスト教の<汝の敵を愛せ!>と言ったのは、地縁・血縁・身内の結束を離れ、敵である他者をも含めた集団になろう!という事なのでしょう。

 最近話題のイスラム国は異教徒は殺すと言っています。すべて自分と同じになる事を目指しています。しかしイスラム教の知人は、あの面倒な礼拝の回数もお祈りも<誰からも強制されるのではない>と言い。<自分はアラーを信じる>と言うだけでムスリムだ、とも言っていました。信仰は、あくまで個人と神・仏との契約・約束です。契約とは大げさですね。戒律もその約束の中にあります。しかし、<自分は何もしないで、神や仏から、一方的に頂くだけの契約>もありなんです。何もしない??。宗教は大変だと思ってると間違いです。ホントはとても楽なんです。シェ~~~~ン!。(南無阿弥陀仏の意味は<仏にお任せします>、アーメンは<(神に)同意します>、アッラー・アクバル<神は偉大>です、これって、同じ意味ですよね?。これを言うだけでも良いんです。

 特にイスラム教は神と自分との契約・約束(戒律)を強調する宗教です。自分と神との関係が強いですから、他の社会からすこし乖離します。ですから〔何故死ぬまで働くのか?〕に述べたように、大きな集団に入ると、強い役割に因って自分を失い易いし。指導者によっては自爆まで突き進みやすいのです。あくまでも、信仰ではなく、恣意的な指導者・集団の問題なのです。一方、日本の仏教は個人との約束事(戒律)が少なく、社会儀礼に専念していますから(?、そうではない人達もちゃんといます)、逆に社会に埋没してしまいます。 

 信仰を持つか持たないか、どっちが良いか、本当に個人の問題です。信仰をした方が得だ、損だ、と言うことはありません。損得で信仰を持つのは宗教ではありません(この方が一般的かもしれませんが・・)、それは、お金や物に対する信仰なのですから。疑え!徹底的に疑う、そして残った物が本当の信仰なのです。その疑問を突きつけてくるものが神や仏の真の姿かもしれません。

 まあ~~、しかし、もう少し正確に言うと、本人の意思に係わらず、信仰は出会ってしまうものだと思います。あなたも、突然、目に見えない世界が広がり、何かが語りかけてくるかもしれません。その世界は、今いる私達の世界よりも格段に大きいのかもよ?。

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仏教には本来、お盆も先祖供養もありません。では、アーメンの世界は?

34 キリストの願い?
 キリスト教の聖書(新約)の中心はマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの福音書です。すべて同じ様なイエスの奇跡の物語です。初めはその四つの福音書の違いばかりに目が行きました。どうして、ありえないような奇跡の物語を、何故・何度も書くのだ?。んん・・ん!。

 福音書の中でもっとも記事が多いルカの福音書を読んでみましょう。その中に約23回のイエス
がおこなった奇跡が書かれています。しかし、その奇跡の異常さの割には、イエスの行為そのものはサクット簡単に書かれています。特に23番目のキリスト教最大の奇跡、<復活後のイエスに会う>はまったくもって地味です。イエスが復活して、そこにいるのにだれも気が付きません。なんだかんだあって、<それで、目が開かれ、イエスだと分かった>。こんなシナリオではハリウッドの映画には絶対なりません。

 しかし、そこに理由があったのですね。その奇跡の起こし方が変わっていますね。普通、奇跡を起こす場合は(普通ないですけど)、ハリーポーターのように呪文を唱えるとか、魔法使いサリーチャンの様に魔法の棒を振ったり、カラー・レンジャーのようにポーズを決めます。

 ところがイエスの奇跡は、まるで人事の様に特に何もしません。ただ口で言う程度で「立ちなさい」「行きなさい」で奇跡が起きます。それで死人が生き返ります。何かするにしても、せいぜい手を触れる程度で気合も入れてません(当たり前かな?)。長血の女の所では勝手に女性が服に触っただけで、イエスは怒ったように「誰か触ったのか?」で、奇跡が起きます。このやる気の無さは何?。漁師シモンに魚が取れないと言われた、有名な場面では「行って網を入れなさい」、ハァー?エッ!それだけですか???。てッ感じで、網を入れると魚が沢山取れる。派手なパフォーマンスもしなければ、お祈りも無し。パンを分ける場面でもそうです。「分けなさい」それだけ・・。

 そう言えば、イエスはあまりお祈りもしない(自分が神だから?自分は神だとは言ってないですね)。何かした事で覚えているのは、地面に何か書いた事。そんなのでは、歴史に残らないんじゃないの?。つまり、イエスは何もしてないんですね(深い意味なんですけど・・)。 
でも歴史に残った。本当に何かが起こった、聖書それを言いたかったんです。目に見える世界が何かによって、変わる。実は変わってはいないけど、変わったその世界に我々は住んでいる。それの気づきが奇跡。奇跡と言う事柄を通して、奇跡が起きたと思わせないと理解が出来ないので・・。目や知識ではなく体で感じる別の世界を伝えたかったんですね。イエスはたびたび弟子達に強く語ります「まだ分からぬのか?」そんな感じです。それはすでに「もう奇跡は起きているではないか!」と言いたかったんです。

 それで・・、つまり・・。北斗のケンシロウの様に、「アチョ!アチョ!チョチョ・・!!。オマエはもう死んでいる!」じゃなくて、何もしないで「あなたはもう救われている」と言うことなのです(チョット古いですが・・ゴメン!)。
 キリスト信仰は、そこに回心(かいしん)、そこに真実があるとイエスは伝えたかったのです。その真実とは何か?。奇跡以外の記述にあります。イエスの言葉・説教は、奇跡の記事と打って変わって、非常に強く熱く語られているのです。それは何ですか?、私は言わないよ(言葉に出来ない?)・・、私だけのものですから。あなたはもう知っているかもしれませんが・・。奇跡が本当の出来事かは、熱心に熱く語られた中にあるような気がするのですが・・。

 たまたま、大宮牧師が、そこの<回心>の話をして、<改心>ではないんですね?と確認したら、「そうです」と言う事だそうで。先に書いた、仏教の回心(えしん)と読みが違いますが同じ意味。「そうそう!」と一人で納得したのでした。何で回心と書くのかと言うと、知識とか思想ではなく、感覚みたいなものなので、又忘れたりしまうので<グルグル回る>の、字を使うのです。

 信仰は知識ではありません。奇跡は起きない、しかしイエスに因って起きていた。イエスの伝えたかったものは、常識や知識を確信する者には見えない、奇跡と言う<信じざるを得ない出来事>を繰り返し起こさないと気づきが無い、と、そして最後には十字架にあがったのかもしれません。キリスト教も「神を信じましょう!」ではないんですよ。こんな感じ「GOD LOVE ME]、動詞にsが付かない所が良いでしょう?。

信仰と宗教の違い②

33 宗教では救われないんです?
 何でこんなに宗派があるの・・?。初めは同じ信仰でも、どんどん解釈に因って分かれて行くのが?、これもまた人間の集団の必然なのです。しかし、強い集団になって世界を征服したい、という野望は本来、信仰には無いのです。繰り返しになりますが、信仰には自分が信じれば良いのであって、外に向かって集団の為・正義の為という要素が無いのです。<あなたが信じれば私も幸せになるとか、世界中の人が信じなければいけない>、のではないのです。これは徹底したした自立の考えです。一つの自立の為の道具なのです。<一人一宗教>かもしれません、ですから、私が書いている事も、ああ・・マリオはそう見てるんだ、と思っていただければ良いのです。

 宗教の中身はとにかく、骨格の部分について書きます。それは現世利益が目的ではないという事です。現世利益は<家内安全・商売繁盛・無事故無違反?頭髪増進!>など、生活に役立つ利益があるものです。本来の宗教はそのようなものを目指してはいません。じゃあ何のために宗教や信仰するの?、そこが問題なのです。よく分からない?、そこで入り口の為に過程として現世利益があると思えば腹も立ちません〔方便とも言います〕。

 未だに<一神教は多様性が無く、多神教である日本の神や仏教は、異なった文化・価値観の相違を理解することが出来る>という考えがありますが。それは価値観や有益性に因って宗教を図るという事です。でもそれは、そもそも間違っているし。信仰は元々<目に見える相対的な価値観(この世的価値観)に基づく物ではない>し。又、信仰自体が自分だけの事なので、人に訴える必要が無い。つまり他者と共有する必要が無い、他者を排除する論理が無いのです。しかし、宗教団体になると違ってくるのです。そこを押さえて、宗教を見てほしいのです。

 信仰は人間として成長する・とか、立派に成るものでなく、賢くもならないし、社会を変えようとするものでもありません、毒にも薬にもなりません。そもそも考えを変えるものでないのです(結果的に成るかも?です)。つまり、信仰は不幸な人が幸せになる、便利な乗り物ではないのです。そう言われると、唖然としますね・・・。
 <救われるんじゃなくて、救われているんです>。ますます分からない!。同じ<救う>と言う言葉でも意味が違うんです。適当な言葉が無いから、しかたがないんです。

 例えばこう言う事です、<人生はお金じゃない。人はパンのみに生きるあらず>と言いますが、それを知識として理解するのではなく、体が理解してしまう事です。知識ではなくなるんですね。又例えば、病気になったとします。お祈りすれば病気が治るのではなく。病気になったという事に、納得する事→進んで納得出来る事なのです(嫌々でなく)。<病気は病気としていただく。すべてを御縁としていただく>世界なのです。じゃあ!何にもしないの?。でも、何もしないという事ではありません。やっぱり普通に欲で動くのです。しかし納得することなんです。又は自分の愚かさ・身勝手さに気づくだけです。ありえない??。どうにも成らないことを、どうにも成らないと知る・感じる事だけです。

 もうチョット言うと、そこに心が晴れる歓び、命が解放される感動を受けるのです。その背景に仏や神の慈悲・愛を見る・感じるという事なのですが、実はそこは未知なのです。それを信じるか信じないか、絶対的他者の存在を認めるかどうか、が信仰を持つかどうかの境目なのです。

 ですから真宗では、仏教そのものを<論理>、だと言う人もいます。この辺は、先に述べたように自分で解釈すればいいのですが・・・。ただ、論理が<腑に落ちる>感覚は、哲学や思想とは違うと思うのです。つまり、学ばなくても初めから分かっている人がいたり、修行・勉強しても理解出来ない事も有るのです。そして、その背景に存在すると信じられているのが、神や仏・アラーです。仏教では、こうした人をめぐるすべての営みを<自然の摂理>と言い、それに触れる事を仏法を学ぶと言います。ですから、元々葬式や先祖供養は別物なのです。回心(えしん)や回向(えこう)を信じる(又は、信じちゃった)事なのです。この辺の説明は、意味は分かるんですが、仏教用語なので詳しくは専門家にお任せします・・(でも、ものすごく解釈が分かれるんです)。

宗教は人を殺すことも、信仰は人とは関係ない(自分と神・仏との関係)。

32 宗教と信仰は違うの?
 SNS(インタネットでの交流)をしてて気になることがあります。それは宗教・信仰への偏見・誤解が多いと言う事です。たぶんこれは宗教家〔専門家〕と言われる人も、宗教の中に居る人達も同じかもしれません。私が間違っているかもしれないんですが、これはいつも言いたい、大事だと思っていることなので書きます(漸くですが・・)。

 世界(世間)で宗教は、人々の心を癒し・平和な心を作ると思われる反面、古来から戦争を始めたり、多くの社会犯罪を起こす集団と見られています。しかし、世界宗教・3大宗教と言われる本来の姿は、貧民や差別された人々の救済を目的とした集団であったと思います。それが何故、殺し合いの道具として宗教がなってしまったのか、そう思われているのか、残念でなりません。物質文明、物・金が支配する現代にあって、必要とされるべきものが宗教なのですから。
 まず勘違いの元から。<信仰と宗教は別なものなのです>。信仰は個人のものであって、集団のものでは在りません、<個人のその姿を言います>。一方、宗教は団体・集団を外から見た名前、単なる肩書きみたいなもので信仰者の姿ではありません。つまり<信仰は人と神・仏との関係で、宗教は人と人との関係>なのです。単なる言葉の概念の違いと思われるかもしれませんが、そこが宗教(宗教と言われるもの)にとって一番大事な要素なのです。

 信仰は自分がそれぞれに持つものであって、他からそれは違うとか、それは正しいとか言うものではありません。ですから、自分が勝手に信じれば良いのです。ですから<イワシの頭も信心から>と、昔から言われたのです。(何故、イワシ教というのがないのは不思議ですが・・、たぶん食べる物だからでしょう(笑い!))。国が認めるとか、偉い人が認めるというものでは無いのです。あなたが、信じられる・信じたいと思うものが信仰です。ですから、布教も「神を信じましょう」も、献金「お布施をいただきたい」もない世界です。

 一方、宗教は同じような信仰を持つ物の集まりです。相互に信仰を語り親睦を図る集団です。ただし、信仰はあるなしに係わらずです。ここが問題なのです。集団を作ると指導者が必要になり、様々な活動をし始めます。それは国家であったり企業であったりする集団と同質なのです。人間の作る団体はすべて同質なのです。詳しくは〔何故死ぬまで働くか?〕を読んで下さい。ですから、時に指導者の恣意的な信仰に変えられてしまいます。そこを何とか持ちこたえるために、個人の信仰を守るために書かれた物が聖書・仏典・経・コーランと言うわけです。もし宗教が人を救うとしたら、基本的に集団全体ではなく、信仰を持つ一人一人が、それぞれに救われるのだと思います。<救われる>の意味が一般的とは違いますけどね・・。

  宗教には色々な定義がありますが、信仰者を外から規定するものですから、ここではパスします。ある時、お寺さんとの関係は?、と尋ねたところ「寺との関係は付き合いだよ」と友人は答えてくれました。まあある意味正解ですね。宗教(宗派)が無くても信仰が存在するように、信仰は無くても宗教は存在するのです。
 宗教者の集団が政治政党だったり、政党が宗教だったり。政党が土俗信仰の塊だったり、あいまいだ!、あいまいすぎる!。そこですっきりと、独断と偏見の塊で次にすっきり書きしました。
プロフィール

関本塾 岡崎市

Author:関本塾 岡崎市
愛知県の山奥生まれ、岡崎市に住んでます。そば屋を27年、足つぼマッサージ7年、三味線も弾きます。
 趣味はたくさん、山登り・音楽(作詞・作曲)・オートバイ・旅行(バックパッカー)・手作り工作・猫のミーちゃん・生物医学、などなど、
 癌になって気付きました。心と体の開放(生き生きする事)が1番大事だって!!

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